私どもは、アントウェルペンのサロン・トリエナルに貴殿の10.5mの大作を展示できることを大変嬉しく思います。審査委員会は、貴殿のために例外的措置を講ずることに同意しました(貴殿は作品を5月1日から8日の間に会場に発送するだけで良いのです)。7枚のパネルを箱に入れる必要はありません。室内装飾専門の業者がアントウェルペンまでの輸送を請け負います(注26)。 フレデリック氏は、ここに代表作を出品している。何年も費やされたこの作品は、二つの発想源によって完成された。つまり、戦争と、父としての喪の哀しみである(注27)。― 545 ―している作品、レオン・フレデリックのポリプティクにまさしく霊感を与えた。その題名は《万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん》。(...)その出来映えによって本作品は、仕上げの点では極めて細密なゴシックに、色彩の点では素晴らしいルーベンス派に比肩し得ている。これは、作者が20年も前に我々に示した同種の作品の頂点、到達点である。それらは今、人類全体と、祖国の栄誉ある殉教とに捧げる頌歌であると共に、予言でもあるように見える(注24)。このサロンは、戦後の芸術的再生と物質的再生を言祝ぐ側面を持っていたのであり(注25)、この評者のように、本作品を祖国再生の象徴と受け取った鑑賞者が少なからずいたであろうことは想像に難くない。そもそも主催者側にとっても本作品は重要な意味を持っていた可能性がある。1920年2月17日付のアントウェルペンの画家イジドール・オプソメールからフレデリック宛の手紙には次のように書かれている。つまりこの作品は、サロンに展示される際に何らかの例外的な優遇措置を受けたのであり、このことは、主催者側が本作品に付与した重要性を示唆していると言えよう(本作品が無鑑査出品だった可能性もあるが未確認である)。ところで、批評の中には、この絵が描かれた際の作者の個人的な状況について言及しているものもある。これに関連して、大正12年(1923)にこの作品が倉敷で初めて一般公開された際の、児島虎次郎による解説文も引用しておこう。
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