鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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5.トリプティクからポリプティクへというのも、このことに関しては重要な証言があるからだ。1895年に作家アンリ・ヴァンドピュットは、ある文芸誌に寄せた記事でこう書いている。「昨年パリで公開され、自由美学展でもつい先日まで展示されていた《全ては死んだ》(...)誰もが目にして知っているこの作品は、そのアナーキーで悲観的な教訓を保ち続けはしまい。4点の追加のパネルが準備されており、この作品を希望の光で照らすはずだからだ」(注30)。その2年後の1897年に、マウスもほぼ同じことを書いている。「この作品が伝える悲惨な教訓は、今後制作される予定の、より喜ばしい4枚のパネルによって変化するだろう」(注31)。ここからは、遅くとも「死」が完成した翌年の時点で、この絵には「喜ばしい」内容のパネル4枚が付け加えられる予定になっていたこと、つまり「7枚組」として構想されていたことが分かる。戦争と娘を失った哀しみが、絵画― 546 ― (...)七枚接続の作図の一部「万有死に帰す」の三枚は一八九四年に揮毫したものであつて、彼の高遠なる人生観を表現したる作品にして、最も深刻味のあるものである。其後欧州戦乱の起るや、彼の居所は直に独逸軍の施政の下に属し彼の最愛なる青春の子女を掠奪された。悲憤と失望に満ちた彼は遂に神に祈りて、救と愛の力により其復活の到来すべき事を確信し始めて万有は再び蘇生すべき事を芸術の力によりて、現実的に表現せんと発心したのである。其一人の少女の尊き犠牲が、彼の心霊を覚醒せしめ、崇高熱烈なる新な信仰を以て遂に荘厳にして霊妙極りなき巨作を完成せしめた。神の愛を賛美し、人生の悲喜の情感を共に表すべく祈祷を捧げ心血を注ぎつつ敵の包囲の間に在りて黙然として製作に過した。戦乱の平定に帰する■幾年もの間彼は絶倫の精力と渾身の熱情を以て苦心惨憺数千人の人物の描写に努力した。彼は此の作品について自分一代の最も努力した大作であつて、又戦乱を紀念す可きものであると語つてゐる(注28)。これは、トリプティクが戦争と娘の死をきっかけにポリプティクに変わったという「物語」を伝えている。児島が画家自身から聞いた話に基づくであろう(そこには児島自身の思い込みや脚色が大いに入り込んでいるように思われるが)この物語は、一般的にも、この作品の成立の背景を説明するものと考えられている(注29)。事実、娘ガブリエルは1916年に14歳で他界しており、本作品の「目覚め」と「復活」に、画家は亡き娘への言葉を書き込んでいる。しかし、戦争と娘の死が、元々トリプティクだったものをポリプティクに変えたと考えるのは短絡である。

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