鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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6.終わりに以上、この作品について、同時代の批評や資料を手がかりとして、当時の評価や、トリプティクからポリプティクに発展した背景について検証した。今後は、彼の他の作品との関連、とりわけモティーフとしての「子ども」やポリプティクという形式の問題について検討すると共に、1920年のアントウェルペンのサロンについても更なる調査を行うことが必要であると考えている。― 547 ―形式を変貌させたわけではないのである。とはいえ、この二重の悲劇が元々構想されていたポリプティクを完成させる契機となった可能性については、考慮しなくてはならない。息子ジョルジュによれば、フレデリックが実際に「目覚め」に取りかかったのは1914年であった。彼と妹は、そのためにポーズさせられたので、良く覚えているのだという。「父は自分の仕事について殆ど語りませんでした。しかし私は、1914年の虐殺が(この作品の)再開と無関係ではなかったと確信しています」(注32)。ジョルジュの言う「虐殺」とは、1914年8月にフランス侵攻のためベルギー南東部に侵入したドイツ軍により、5000人ものベルギー国民(民間人)が犠牲になった出来事を指している。ここから、ポリプティクとしての完成に、大戦や娘の死が関係している可能性は高いと考えて良いだろう。これらの出来事が、構図や細部描写に影響したことも考えられる。しかしそれはあくまで中断していた仕事を再開するための契機であって、それがポリプティクの構想そのものを決定したわけではないのである。息子の証言通り、フレデリックは自作について極めて寡黙な画家であった。それは、作品の解釈が一人歩きする可能性を孕んでいる。「死」が、娘と祖国への鎮魂の願いから「再生」に変貌したという物語は美しく、人々に受け入れられやすい。戦後初のサロンで公開されたという事情も、その物語を補強する。そして作者自身が、4枚目以降の制作から公開までのどこかの時点で、この作品をそのようなものとして位置づけ直した可能性もあるだろう。かくして、「死」から「再生」への物語が成立したのではないだろうか。最後に、ジョルジュの言葉を信じるとして、この絵のためにポーズした兄妹の姿はどこかに見つけることができるだろうか?この時ジョルジュが14歳、ガブリエルが12歳であることや献辞の位置から考えれば、「正義」の手前で腕を絡ませ合って眠る1組の少年少女を彼らと見なすのが自然ではないかと思われる〔図7〕。

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