■像― 561 ―身的に制作したのはブルターニュでした。リヴィエールが美術評論家に認められたのは、特に、西洋版画の世界に、多色摺り木版画の制作をもたらしたからです、もちろんそれは日本の版画から援用したのです。リヴィエールは1889年、独学で浮世絵の制作技術の秘密を解き明かそうとしました。先駆者としてのリヴィエールの役割をよく理解するために知っていただきたいのは、当時、フランスの版画家は、日本の浮世絵の技術を紹介する手引書を全く持っていなかったということです。ブルターニュを描いた版画で、リヴィエールが日本の絵師の図や美学から、形態的に借用をしている例はいくつも挙げることができます。しかし、皆様方の国の絵師と異なり、リヴィエールは自分の木版画のために、職人に頼ることができませんでした。それゆえ、全部の工程、つまり下絵の水彩画を描くことから、根気の要る版木彫り、何度も重ねる摺りまで、自分ひとりで行わなくてはなりませんでした。「ブルターニュ風景」シリーズの版画はそれぞれ、彫刻刀で西洋梨の柾目板を彫る作業ですが、10枚から12枚の版木が必要でした。つまり、シリーズ全体で436枚の版木を彫らなければならなかったのです。従いまして、1894年以後、リヴィエールは愛用する技術としてリトグラフ、石版画を採用します。そしてこのリトグラフ作業には、パリでリトグラフ工房を経営するウジェーヌ・ヴェルノの理想的な協力がありました。石の版の上で多くの色を再現できるこの技術の可能性があるので、リヴィエールはこうした選択をしたわけです。が、同時に、木版画よりもはるかに多くの部数を刷ることができることも要因でした。一方では大量の枚数の版画を刷り、また一方では版画を保存用カルトンから引き出し、家庭や公共施設の壁に展示することで、芸術版画を民主化した、とまで言いましょうか。版画に関する評論家で歴史家のクロード・ロジェ=マルクスは、リヴィエールはブルターニュを「あたかも日本列島の属領にした」、と述べています。技術、構成の仕方の選択、絵画上の文法を超えて、リヴィエールの作品全体が醸し出す自然の感情は、西洋で我々がそう感じている、東洋の風景の穏やかなリリシズムに結びつきます。最後に、急ぎ足ではありますが、リヴィエールがブルターニュを日本に、またその反対に日本をブルターニュに招き寄せた結果、ある一つの道が開け、彼の後にその道をたどった画家がいることを指摘したいと思います。そのなかの幾人かを紹介いたします。まず、アメデ・ジョワイヨの例です。この画家は1872年にパリで生まれ、1913年に若くして亡くなりました。浮世絵のコレクターで、水彩画家、多色版画家でした。こ■■
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