鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 562 ―の技法で、1898年から1908年まで、ブルターニュ各地の港の景色を版画にしました。ジョルジュ=アルチュール・ジャカンについてはまだあまり明らかにされていませんが、日本の方法に倣って、彫り、摺ったブルターニュの海岸風景を我々に残しています。アドルフ・ボフレールはブルターニュに生まれ、木版画からはじめその後、銅版に専念した作家です。1900年代に、ボフレールはアメリカ人画家メアリ・カサットの影響と日本人画家の影響を結び合わせた版画を数点残しています。ボフレールと同じ頃、オーストリア人カルル・モゼールが木版とリノリウムで制作した版画やブルターニュ女性を描いた習作を制作していますが、この画家へのアンリ・リヴィエールの影響は顕著です。もう一人、ブルターニュでは非常に有名なブルターニュ画家マチュラン・メユがいます。メユは幸運にも日本に来ることができました。海外旅行の一環だったのですが、それは残念ながら第一次世界大戦で中断されてしまいました。第一次世界大戦の後、フランスの版画は第二のジャポニスム流行を見ることになります。それは特に、皆さんの同国人、漆原木虫による影響です。その影響は、コレクターと芸術家が集まった、日本美術友の会の中で感じ取ることができます。その中で特に挙げたいのは、ジュール・シャデルという芸術家です。シャデルが描いた労働するブルターニュの男女の習作デッサンは、抗いようもなく、北斎漫画の幾ページかを連想させます。リヨン生まれのジョルジュ・ジェオフリエは青年時代から日本文化に熱中し、その証拠の一つは蝉が描かれた自分用の蔵書票で、富士山と創作した組合せ文字が描かれています。ジェオフリエは日本で自分の水彩画を版木に起こし、木版画として摺ることもしました。この1937年制作の「海草を焼く男」で、東京の高見澤木版社の印が押されています。リヴィエールが開いた道は、多くの他の画家にも辿られ、日本とブルターニュという世界の両端の間で芸術的対話が続いていました。この長い歴史の中で、今回の日本のリヴィエール展は一つの出来事です。というのは、素晴らしい形で、こうした交流の豊かさを示しているからです。当展を企画した皆様を讃えるとともに、お礼申し上げます。私が館長であります県立ブルターニュ博物館がこの重要な回顧展に参加させていただいたことを心より喜び、最後の挨拶とさせていただきます。

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