― 48 ―そこで、本稿では、以上の先行研究を踏まえた上で、岡倉天心が推し進めた課題制作をめぐる問題について、宋代画院との関係を中心に考察を行う。まず天心の課題制作に先行するものとして、どのような課題制作が行われていたか、そして天心はどのような課題を設定し、どのような着想による制作を望んだのか、について検討する。課題制作は、先例として中国・宋代画院という歴史的背景を持つことを検証し、天心一派が宋代絵画を参照にしつつ、暗示的に着想を表現することを試みた可能性について考察する。一、日本美術協会の課題制作明治期の課題制作の問題を考える時、日本美術院より以前に、日本美術協会が積極的に課題制作を行っていたことは、あまり注目されないで来た。日本美術協会美術展覧会では明治22年(1889)から課題を設定して出品を募るということを始め、それは明治32年(1899)頃までほぼ毎年行われた。また、日本美術協会では同じく明治22年2月から絵画品評会(同年8月からは絵画研究会)をほぼ毎月開き、課題制作を奨励した。これも同様に明治32年頃になると課題は設定されなくなり、やがて絵画研究会はなくなり、歴史風俗画会(注3)へと活動の中心を移していく。日本美術協会の課題設定は、美術展覧会の課題も絵画品評会・研究会での課題も、一つ、もしくは二つほど宮中御歌会御題を含むものだった〔表〕。そして、美術展覧会での課題には、毎回「智」「仁」「勇」「孝」「忠」「義」「礼」というような抽象的な概念が課題とされた。こうした課題をどのように表現すべきか、という問題について答えた記事に塩田真の「意匠ハ肝要」(『日本美術協会報告』13号、明治22年1月)(注4)がある。塩田は、明治22年の日本美術協会美術展覧会の課題に即して、日本美術協会の課題制作は「新意匠」の開発のためであるとし、そのために設定された題(水石契久(宮中御歌会御題)、智、博キ恵ミ(注5))について、次のように説明する。「水石契久」という題ならこの題で先人が詠んだ和歌を参考にして新趣向を出すべきであり、「智」という題なら、楠木正成は誰もが知る「智人」なので、楠木正成や諸葛孔明がその「智」を発揮している所こそが「智ノ現象」であるので、そこを描けば画題に適応するという。この明治22年の日本美術協会美術展覧会について、岡倉天心は次のように述べている。
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