― 581 ―間の生存問題を突出させ、通常の認識論を超えている。例えば道家の古代存在論の基本的な命題である「道法自然」(『老子』)を取り上げ、この命題は「濃密な生態意識をもつ東洋の古典的な存在論」の特徴をよく示しているとして、古典的生態論に於ける審美論を説く。以上は、中国の古典の深い解釈を通して、現代に於ける生態美学の歴史的文化的な基盤を考察した氏の所論の一端ではあるが、それは、今日、北米を中心に盛んとなってきている環境美学との異同・対決を意識している。曾氏の立場と呼応するかの如く、歴史と文化を踏まえて、コスモロジーの側面から芸術文化論を展開したのが、齋藤稔広島大学名誉教授の研究発表であった。氏は、エコロジーがコスモロジーに支えられていれば、近代において自然疎外や環境破壊などは起きなかった。その意味で、コスモスという神と人の共存する原郷から疎外された現代の芸術の本来の故郷を見出す試みでもある藝術エコロジーを包摂するコスモロジーが求められる、という主張の下、1.西洋の古代におけるミュソロジーおよびコスモロジーを基軸に引き出される芸術存在を、東アジアの古代のそれと比較・対比して比較芸術学的観点で考察し、2.東アジアの古代から存在する芸術文化を対象にした芸術学的理論に関して、その先鞭を披瀝した岡倉天心の考察や洞察によって検証し、3.東アジアの典型的な先例であるインドのエローラ、中国の龍門、雲崗、日本の臼杵の石窟寺院、弥山の磐座、出雲大社、東大寺、宇治の平等院などを例示して歴史的説明と東アジア的な展開を辿った。以上は所論の一部であるが、その過程で吉祥天や伎芸天や弁財天など、東洋の藝術の女神に触れて興味深かった。質疑応答の際、桑島秀樹氏がもう一つの環境美学として触れたヤーコブ・ベーメの所論との関連もあり、非−視覚中心的な雰囲気の美学に触れよう。ベーメの雰囲気の美学は東アジアの藝術にも深く学んだ跡が窺われる。それは構造的な自然観とは別種のアプローチで自然美に迫る。景観の形相・構造から可動的自然、即ち雨や雲や霧の齎す雰囲気や霊性の体感的把握の問題が焦点になる。例えば湖水地方の水辺の景観を定型化した瀟湘八景では、その表現の焦点は夜雨・晩鐘・暮雪・夕照・秋月・帰帆等、時刻で言えば夕暮れから夜、気象的には雪・雨・月、また晩鐘や帰帆に感じられる霧や靄が焦点化されている。関連して青木孝夫氏はシンポジウムに先立つ全体会議で、山水思想は決して自然の構造である山河や川や湖の問題だけでなく、むしろ気象学的な意味での雨、即ち雲・霧・靄などを含む表現が自然の霊性の表現と深く関わり、或いは人間の内面への注目を喚起することを指摘した。即ち雲や霧は、崇高な山の霊性の表現と関わり、雨もま
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