鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 582 ―た雲と一体となって、肉眼で把握できる山容とは別次元の山の聖性ひいては大自然の霊性を表現しているのである。中でも、とくに雨の表現を取り上げて、これは絵画に描かれるだけでなく、むしろ詩で頻繁に取り上げられる題材であり、雨の絵画的表現の基盤にあることを示した。こうした創造と受容の両面で人々に染み込んだ習性また感性は、水辺の大気感の把握を越え、朦朧・薄明たる対象の把握や藝術表現の問題と深く絡んでいる。そこには眩いばかりの太陽光を典型にした可視的世界像とは異なる薄明・朧なる世界像の把握がある。このように東アジアでは、靄や霧や雨などの可変的な気象契機を含む自然景観の把握や風景表現に西欧よりも千数百年は先んじていたのである。そもそもの自然風景観の相違については、山水画の研究者でもある山西大学の臧新明教授が、〈写生〉概念の展開と絡めて的確なリポートをした。中国では写生は伝統的な用語にして概念であり、近代的な翻訳語に限定されない。写生は人物・肖像画にも適用されるが、自然景観や歴史的景観の把握にも適用されてきた。写生という語の、概念内包の形成は、あくまで眼前の自然の中に表出され、また把握される霊性であるが、それは造化として根源的な自然の次元の問題である。中国古典絵画理論では、この〈写生〉は、画家の眼によって把握される対象の形態よりも、画家の精神によって発見される対象の真髄の表現である。現実に知覚される形は、それを通して把握される神的なもの、根源的なものが、開示される契機ないし媒介である。形の再現が目標なのではなく、形を通して観取されるものが、おなじく形の象徴的な提示を通して表現されることが眼目である。根源的な自然は、可視的な把握を越えている。しかし、不可視・不可聴ではない。そこで問題になるのは、視覚中心的な風景観や対象再現的な景観ではない。根源的な自然の様相は、同じく根源的な自然に帰属する人間の精神の次元で把握されるものである。昼の輪郭明確な自然の表現よりも薄明たる自然表現の中に幽玄を看取・体感する感性はまた、月光の清やかさを愛するだけでなく、朧なる様態をも親愛する感性へと連続している。「朝鮮王朝時代の月夜の山水画に関する美学的研究」を発表した金美永氏(慶州博物館)は、質疑応答の際に山水画が現実の再現ではなく、理想的な景観や精神世界の表現と深く関わる点は、文人画の伝統の中で描かれて観賞されてきた月の絵画的表現についても同様である旨、月の美的体験は、世俗世界からの浄化・遊離等を意味するとコメントした。関連し、観者が画面の中で月を「浴」びる感覚について興味深い意見が交わされた。そこには画中の理想境に身を以て生きる藝術精神や感覚

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