― 50 ―「魁則画荒山満幅、止出旛竿以見蔵意、余人乃露塔尖或鴟吻、往往有殿堂者、則無復蔵意矣」「又試踏花帰去馬蹄香、不可得而形容以見親切、有一名画、克尽其妙、但掃数蝴蝶飛逐馬後而已、便表得馬蹄香出也、果皆中魁選、夫以画学之取人取其意思超抜者為上、亦猶科挙之取士取其文才角出者為優、二者之試雖下筆有所不同、而於得失之際、只較智与不智而已」つまり、多くの人は空の舟を岸に繋げ、あるいは鷺を舷に配し、あるいは鴉が篷背に棲むところを描いたが、首席合格者はそうではなくて、舟尾に一人の舟人が笛を吹く姿を描き、題意を、舟人がいないのではなく、旅人がいないだけであり、舟人が暇にしている様子を示したという。「乱山蔵古寺」の画題の試験についてはつまり、首席合格者が荒山をいっぱいに描き、上に幡竿を出すことで古寺が隠れていることを示したのに対し、他の人は尖塔や鴟尾を露わに描き、ときには建物を描く者もいた。それらは「蔵意」、すなわち古寺が隠れているという意味がないので失格であった。以上、鈴木氏の論考を参考にしたが、このように画題のメインモチーフをあえて描かずに、周辺のモチーフによってそれを暗示することで、鑑賞者の想像力を活かすということが宋代画院の課題制作の一つの特徴であったといえるだろう。こうした暗示的な着想の重視は、意匠研究会で岡倉が掲げたことと重なる。一方、岡倉が良くない画題の例として挙げた「踏花馬蹄香」については、■成『螢雪叢説』(「試画工形容試題」)(注8)に次のように記されている。「踏花帰去馬蹄香」という題は、形容することができないものであったが、一人の名画工があり、数匹の胡蝶が馬の後ろを飛びながら追う様子を描き、馬蹄の香を表現して見せ、首席合格になったという。岡倉はこれを良くない画題の例として挙げており、香りという描くことのできない課題を設定し、それを説明的に表現することに否定的だったようである。こうした宣和画院の課題制作は明治期にもよく知られていた。例えば、明治24年(1891)の『國華』25号には「宣和画院」という記事が掲載されている。そこでは、
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