― 51 ―「又■宗帝は試験をなすに、自ら画題を課す。中に、「古渡無人舟自横」の、唐人の一句を以てせることあり。之れに応じて一等なりしは、舟あり、其の端に一鷺立つ、以て無人の意を表はせりと。其の意匠の細に渉れること此の如し。又、「看花帰去馬蹄香」の句に応じて一等なりしは、馬上帰去の人あり、馬蹄の傍らに飛蝶を画けりと。香は画き得べからざるを以て、蝶を以て之れを表はす。其の苦心せるは疑ふ可からず。然れども香は詩を以て云ふべきも、画の表はし得べきものにあらず。詩には詩の境界あり、画には画の境界あり。」『東洋の理想』では次のように述べている。「ある観念の完成形はおのずから暗示されるにとどめて想像力に委ねることが、あらゆる種類の芸術的表現に必須の教えである。というのは、こうしてこそ見る人が芸術家と一体化し得るからだ。偉大な傑作の余白として残された絹地は、しばしば描かれた部分以上に意味深い。宣和画院の課題制作について、先述した「踏花帰去馬蹄香」「野水無人渡、孤舟尽日横」「乱山蔵古寺」などについて説明する。また岡倉は同じ頃、宣和画院の課題制作について、次のようにも述べている(注9)。ここでも、岡倉は香りのような描くことのできないものを画題にすることには反対の姿勢を見せているが、暗示的な表現には好意的であった。そして、こうした暗示的な絵画の作例として(伝)馬遠筆《寒江独釣》(重文、南宋時代、東京国立博物館)〔図1〕を挙げ、主題を描くのに、岩石、崖、竹木などを全く描かず、一隻の小舟に乗った釣人を描いただけであり、「工夫の極、遂に此に至れるなり」(注10)と評価している。そして、明治30年代に入ると、岡倉は宋代絵画の暗示性を高く評価するようになり、宋代は美術と美術批評の偉大な時代であった。十二世紀の■宗皇帝は彼自身偉大な画家であり、庇護者であったが、この頃以来、宋代の画家たちは馬遠や夏珪、また牧谿や梁楷に見られるように、こうした精神に生きた理解を示してきて、これらの画家にあっては小品といえども広大な思想を表現し得ている」(注11)
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