鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
63/597

― 53 ―的な熟語が中心で、時には赤、青、黄などの色が課題として設定されることもあった。日本美術協会の絵画研究会での課題設定と比較すると、歴史人物などが課題とされることはないが、課題から着想して歴史人物を描くことは行われた(注17)。また、二字熟語を課題とするため、必然的に課題は説明的にならず、抽象的なものとなった。そして、その課題から着想された作品は、現在確認できる図版を見る限り、風景画・風俗画が多数を占めている。四、宋代画院絵画の影響明治35年8月の第20回絵画互評会の課題「清勁」のために描かれた大観の《隠棲》(茨城県近代美術館)〔図2〕は、その着想から一等賞に選ばれた。「清勁」とは、すぐれて強いことをいう。この課題では竹や松を描くものが多かったが、大観はあえて、岩上で月光を受けて座す高士を描いた。その着想が面白いと評価された(注18)。《隠棲》については、すでに南宋・(伝)■宗筆《秋冬景山水図》(国宝、金地院)〔図3〕の内の秋景との影響関係が指摘されている(注19)が、そうした構図を踏襲しつつも、朦朧体による厚みのある立体表現と、月光の光と影の描写によって、すっきりとした画面に組み立てられている。(伝)■宗筆《秋景山水図》は早く明治17年の絵画共進会に参考陳列されている(注20)ほか、明治32年には『真美大観』(注21)で、明治36年4月には『国華』155号(注22)で紹介されている。このように当時よく知られていたこの作品に構図を学んだと考えられる作品に、菱田春草が滞米中に制作した《放鶴》(新潟県立近代美術館、1904年)〔図4〕がある。右下に人物を配し、対角線上に鶴を配する点で共通するこの作品は、明治30年代に宋代絵画が大観・春草らにとって重要な位置を占めていたことを伝える。さらに、菱田春草が明治35年1月の日本美術院絵画研究会の課題「荘重」に対して出品した《高士望岳》(広島県立美術館)〔図5〕は、(伝)■宗の《秋景山水図》とともに、范寛の《谿山行旅図》(台北故宮博物院、北宋時代)〔図6〕のような高遠形式の山水画の影響を見ることができる。課題制作が宋代画院に淵源をもつこともあり、この時期の春草や大観が宋代絵画に範をとったとも考えられるかも知れない。このように盛んに行われていた課題制作であるが、明治36年11月に絵画研究会と絵画互評会を統合した二十日会が発足すると、そこでは課題制作は継続されなかった。大正期の再興院展では、大正末期になり、前期日本美術院の課題制作が絵画部研究会において一時的に復活した。

元のページ  ../index.html#63

このブックを見る