注⑴ 横山大観の文部大臣橋田邦彦宛て書簡、昭和16年1月1日。同日付で要職の人や新聞社、雑誌社などに配布した。「日本美術新体制の提案」横山大観記念館編『大観の画論』鉦鼓洞、平成5年、272〜280頁、所収。― 54 ―⑵ 塩谷純「「理想画」への道程―橋本雅邦《龍虎》以後―」『美術研究』377号、平成15年、1〜その後、昭和16年1月1日に横山大観が発表した「日本美術新体制の提案」(注23)で、現状の改革案として課題制作を提示することは、本稿冒頭で述べた。横山大観は戦前の美術改革にあたっても課題制作を提示し、それは必ずしも実現はしなかったが、大観が課題制作をいかに重視していたか、うかがわれる。さらに、大観はそうした課題制作の淵源として、宋代の宣和画院があることも理解していたのである。おわりに以上、明治期の岡倉天心の課題制作について、宋代・宣和画院との関係から検討してきた。岡倉天心の始めた意匠研究会(遂初会)の課題制作は有名であるが、それ以前から日本美術協会では活発に課題制作が行われていた。意匠研究会と入れ替わるように終息していった日本美術協会の課題制作は、宮中御歌会御題および歴史人物などを課題とする一方、「智」「仁」といった抽象的な概念を課題とする点で、岡倉天心率いる日本画新派の絵画制作に通じるところがあった。岡倉は日本美術協会の課題制作の意義を認めつつも、その画題設定に違和感を持っていた。こうした課題制作の先例として、岡倉は宋代・■宗の画院での課題制作を意識していた。■宗画院の暗示的表現は岡倉が展開する課題制作とその評価に通じ合うものであった。そして、日本美術院絵画研究会での課題制作では、状態・性質・心情などをあらわす課題をテーマに、暗示的なモチーフで着想の妙を競うことが行われた。そうした課題制作は、横山大観にとって重要な研究方法であったようであり、再興院展でも行われたほか、戦前の美術改革でも検討された。課題制作は、岡倉天心が絵画制作上、着想をいかに重視したかを伝えると同時に、画題をいかに暗示的に表現するか、ということを重視したことを示している。そして、その絵画修習法は宋代画院に基づいており、東洋の歴史的な背景を持つものでもあった。この課題制作は、岡倉天心の理想主義の根本的な要素を示しており、横山大観にとって後々までも重要な意味を持つものであった。29頁。
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