鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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6.戦後7.おわりに小松崎の《パンサータンク》のボックスアートと《ただ一撃》は、後者を飛行機プ― 63 ―上の引用で指摘されているように、軍部ももはや絵空事めいた英雄物語や半ばSF的な機械兵器の活躍想像図など求めてはいなかったのである。ここにおいて藤田嗣治の《アッツ島玉砕》に代表される無名の兵士たちによる血みどろの死闘図や、古城江観《紐育制圧の図》〔図3〕のような特異な視覚表象が生み出される土台ができあがってくる。筆者は、研究をすすめるなかで、十五年戦争末期の戦争画を満洲事変の頃の「戦時」イメージと単純に同一化させて語ることはできないのではないかという思いにとらわれ始めた。さて、戦後これらのイメージとその描き手はおもに2つの道をたどる。ひとつは視覚メディアの表舞台を去り、いわゆる「サブカルチャー」に回収される道である。『少年クラブ』『冒険活劇文庫』等を舞台にしたSF仕立ての冒険小説や、いち早く復活した街頭紙芝居などでこれらのイメージは再生産されていく。むろんこれらは現実の戦闘を題材にしていたわけではないが、「機械兵器が活躍するロマン溢れるお話」という意味では満洲事変の頃の「戦時」イメージと何ら選ぶところはない。1950年代には「戦記」ブームも到来し、ここでは10年前の現実の戦争のイメージがさかんに消費された。もうひとつは、公募美術団体という職能団体に所属して、いわゆる洋画家・日本画家として生きる道である。今回はこれについてはとくに触れない。この小松崎茂は十五年戦争期の「戦時」イメージと戦後の大衆イメージをつなぐ象徴的な人物である。彼は、1930年代から『少年倶楽部』『機械化』などで活躍した挿絵画家であるが、戦中は「陸軍美術展」「航空美術展」「国民総力決戦美術展」等に多くの作品を出品しているのである。さらに1943年の陸軍美術展に出品された《ただ一撃》〔図5〕が藤田嗣治の激賞を受けたというエピソードが伝えられている(注4)。戦後は花形挿画家の一人となっており、田宮模型はそれを起用したのである。1961年、田宮模型(現タミヤ)は、ボックスアートに小松崎茂を起用し、ドイツ軍戦車のプラモデル《パンサータンク》〔図4〕を発売した。小松崎のボックスアートは商品のヒットに貢献し、他社もこれに追随した。これ以降、ボックスアートは絵物語の正当な末裔として視覚メディア史の中に自らを位置づけていくこととなる。

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