1 軍需生産美術推進隊とは昭和10年代後半、時局に即した様々な美術団体が誕生していくなかで、産業方面での美術家の結集が求められた。これを受けて、昭和19年(1944)4月8日、洋画家の鶴田吾郎や向井潤吉、彫刻家の中村直人や古賀忠雄らによって組織されたのが、軍需生産美術推進隊である。その活動は、軍需省より指定された工場、炭鉱、発電関係に班を組んでおもむき、慰問奨励のための絵画作品や、モニュメントとして約2〜3メートルの坑夫像を制作していくことによって、現地の軍需生産を促進させることを目的とした(注3)。― 67 ―⑦近代日本における戦争と彫刻の関係―軍需生産美術推進隊を中心に―研 究 者:小杉放菴記念日光美術館 学芸員 迫 内 祐 司はじめに昭和22年(1947)4月、日本美術会が結成され、美術家に対する戦争協力への糾弾が始まる。藤田嗣治・横山大観はじめ、複数名の美術家の名前が、「美術界に於て戦争責任を負ふべき者のリスト」として挙げられ、自粛を求められた。このとき、彫刻家としては、再興日本美術院で活躍していた中村直人ただ一人の名前が挙がっている。“罪状”は、「軍需生産美術挺身隊の組織加担者、新京芸術院の組織に参画、彫刻界に於ける最も積極的な軍の協力者」(注1)。中村は昭和27年(1952)に渡仏後、グワッシュによる絵画作品に専念するようになり、画家として人気を博すようになる。小杉放菴記念日光美術館では、青年時代に放菴からデッサンを学んだという縁から、中村の画業を展観する展覧会を開催し(注2)、平成21年度に絵画を中心とする作品の寄贈を受けた。今後、画家への転身の背景を見直していくためにも、戦中期の活動を検証することは不可欠と思われる。本報告では紙幅も限られていることから、中村直人が関係し、戦中期の活動として上記のリストでも挙げられている、軍需生産美術推進隊の彫刻活動について、その概要をまとめてみたい。同隊については、すでに平瀬礼太氏による詳細な研究がある(注4)。本稿では、平瀬論文ではあまり言及されていない彫塑部の活動に絞って、実際に制作された坑夫像の行方を追っていきたい。彫塑部のメンバーは、隊長を務める鶴田吾郎が、日本壁画会の仲間だった中村直人
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