2−2 福岡県九州には計4点の坑夫像が建立されたことが確認できる。ただし、新聞記事によっ― 69 ―右腕を高く掲げ、肩にロープをかけ、左手に採掘道具を持ったその姿は、隊員の一人、古賀忠雄が昭和17年(1942)の第5回新文展に出品し、翌年帝国芸術院賞を受賞した作品《建つ大東亜》〔図2〕のポーズを転用したものと考えられる。満州事変以降、文展彫刻部では時局を反映して、筋骨隆々たる男性像、とくに生産労働者や、戦争に直接題材をとった作品が多く見られるようになっていた。なかでも古賀は、男性労働者の表現に独自の境地を見出し、昭和15年(1940)の紀元二千六百年奉祝美術展に、炭坑夫を題材にした《新鉱開発》を出品するなどしており、軍需生産美術推進隊においても、主力として活動していた彫刻家だった。夕張の仕事を終えた彼らは、そのまま■別へ向かい、今度は二人の坑夫が並ぶ群像を制作する〔図3〕。当初、西■別町の旧三井■別炭鉱に建立され、かつては台座正面に「飛躍」あるいは「飛翔」と刻まれた陶板が据えつけられていたという。風化が激しく、頼城町の有志らから成る「坑夫の像保存会」の尽力によって、平成9年(1997)5月、頼城町にレプリカ像が新設されたのち、旧像は解体された(注10)。翌年の昭和20年(1945)8月には、三井砂川鉱業所に、別班によって《敢闘》と題する坑夫像が建立されている。現在、上砂川町のかみすながわ炭鉱館前にレプリカが移設されている〔図4〕。建立時のものと思われる台座には、次のように刻まれた銘板が付けられている。「本像ハ増産意欲昂揚ノ為メ左記五氏ニヨリ製作セラレタリ/長沼孝三 野々村一男 菅沼五郎 中野四郎 峰孝/昭和二十年八月 三井砂川鉱業所」。終戦の月に建立されたこの像は、おそらく軍需生産美術推進隊による最後の坑夫像であり、終戦ギリギリまで活動が続いていたことがわかる。隊の解散は、終戦から一週間ほど後のことであった。て制作時期が判明しているのは1点であり、他の3点は時期が特定できていない。その1点とは、昭和19年9月に制作された《滅敵》と題する坑夫像である〔図5〕。記事には、「古賀忠雄氏を班長とする木下繁、中川為延、大須賀力、峰孝の諸氏の一行は九州某炭鉱の広場に炭鉱人のために高さ一丈八尺の像をわづか十日間で制作した。材料はセメント」(注11)とあるが、この「某炭鉱」がどこであったのか、特定するに至っていない。残る3点もわからないことが多い。ただ、うち1点は円鍔勝二が一人で、あるいは中心になって行った仕事であったことが判明している。現在の福岡県遠賀郡水巻町に
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