2−4 新潟県雑誌『美術』9号(昭和19年、11月)は、新潟県柏崎方面へ彫塑部が向かったことを報じている。メンバーは林是を班長に、中村直人、長沼孝三、木下繁、野々村一男、川上金次、柳原義達の7名(注17)。この頃の『新潟日報』を調査した結果、昭和19年9月の新聞に次のような記事を見つけることができた。「来越中の軍需生産美術推進隊彫塑班六名の内、班長林是、川上金次両氏は帝石鉱業所西山支所庭園へ等身大セメント像一基を製作、二十四日贈呈除幕式を挙行した。この像は石油掘鑿中の鉱夫がロータリー掘のブレーキハンドルを握り全魂を作業に打込んでゐる逞しい姿を象つた― 71 ―いる。古賀に注目し、北海道、九州の新聞記事と併せ読むならば、古賀は、昭和19年6月中の約一カ月間で夕張の《進発》を完成させ、■別で仕事をしたのち、9月には九州に、10月にはこの地にいたということになる。また、清水多嘉示(1897−1981)の名前が唐突に現れている。『清水多嘉示 資料・論集Ⅰ』によると、昭和18年(1943)の清水の手帳、1月の欄に、中村直人、円鍔勝二、野々村一男、長沼孝三、中野四郎、柳原義達の名前と住所が記されているのだという(注14)。全員、一年余り後に結成される軍需生産美術推進隊彫塑部のメンバーであり、これが偶然だとは考えにくい。同隊設立以前に、このメンバーを中心とする何らかのネットワークがすでに存在していたと考えるべきだろう。井上由理氏は、19年の陸軍美術展に出品された円鍔や古賀らの記念碑マケットは、清水の構想に源があるのではないかと指摘している(注15)。清水と軍需生産美術推進隊との関わりについては、今後も継続的な調査が必要だ。《総蕨起》は、野々村一男によって昭和59年(1984)10月に修復がなされており、以下のような証言が残されている。原材料は会社が負担し、野々村たちが制作して会社へ寄贈する形がとられたこと。保養所に合宿しながら、自治会館に通い、2週間かけて造りあげたこと。像は、地下数千メートルの地底で働く炭坑夫の壮絶とも言える顔の表情、身体の動きをモニュメンタルに表現したものであること、などである(注16)。そして同市内の古河炭鉱好間鉱業所跡に、もう1点の坑夫像が現存している〔図10〕。筆者が調査した時点では、地山の正面と背面に付けられていたと思われる銘板は失われていた。先の『炭鉱(ヤマ)へのまなざし』図録によれば、建立は昭和19年、制作者は、円鍔、中村、木下、長沼、峰の5人が担当した。湯本の坑夫像と同時期の制作であれば、11人の彫刻家が2班に分かれて制作がなされたことになる。
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