鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 72 ―もので日夜燃料増産の指標となる」(注18)。この坑夫像は西山油田の閉山後、昭和48年(1973)に帝石運輸から、現・三島郡出雲崎町の石油産業発祥地記念公園へ寄贈され、現存している〔図11〕。おそらく後年のものと思われる赤茶色い着色が施されているが、筆者が調査した時点でかなり剥落していた。地山には、「NH−ZK」というサインが刻まれており、林是と川上金次の共作であることを示したものと思われる。一連の坑夫像は、共同制作で、セメントの扱いに慣れていないためか、動きの表現が硬く、ぎこちない傾向がある。しかし出雲崎のこの坑夫像は、なめらかな動きと自然な表情があり、セメントをうまく使いこなしている印象を受ける。隊に途中から参加した川上金次(1913−1955、当時は日本彫刻家協会に所属)という、比較的若い彫刻家がいたためだろうか。川上は戦後二紀会で活躍するが、42歳という若さで急逝し、あまり作品を残さなかったため、出雲崎のこの坑夫像は貴重な一作といえるだろう。新潟県に派遣された彫塑部隊は、いくつかの班に分かれたようだが、長沼・木下・野々村・柳原の行方、そもそも本当に新潟へ来たのかは確認できていない。来越した彫刻家について、『新美術』は7名、『新潟日報』は6名と伝えており、情報も混乱している。幸い、中村直人の仕事だけ確認することができた。長岡市の東山油田坑道堀跡に残る《敢闘》である〔図12〕。地山には、「直」のサインが刻まれており、中村一人の制作であったことがわかる。そのためか、作風は、これまでの坑夫像とはかなり異なり、表面は面で処理され、かなり単純化された表現がなされているのが特徴的である。おわりに平瀬礼太氏は、軍需生産美術推進隊が、絵画部のメンバーを中心に戦後の行動美術協会設立へ結びついていったことを指摘している(注19)。それでは、彫塑部のほうはどうだったのだろうか。戦後、円鍔は、これらの坑夫像は、「屋外彫刻のはしりだとは思っていますが、明確な意識があったかといわれれば、なかったと思います」と述べている(注20)。しかし、果たしてそうだろうか。隊員全員が軍需生産美術推進隊の活動に、何らの意味も見出せなかったというのだろうか。各地に残る坑夫像は、セメント製である理由を、戦時中の銅不足に対する代用であったと説明されているのがほとんどである。もちろん、それはとても大きな理由ではあったが、必ずしもそのような後ろ向きな理由だけでセメントが用いられていたわけではない。

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