注⑴『日本美術会会報』第3号−1、昭和21年7月5日(南博編『戦後資料 文化』日本評論社、昭和⑵『生誕百年記念 最後のエコール・ド・パリ 中村直人展』小杉放菴記念日光美術館、平成17⑶中村直人「軍需生産美術挺身隊の発足」『美術』5号、昭和19年6月、26〜27頁⑷平瀬礼太「軍需生産美術推進隊について」『姫路市立美術館研究紀要』6号、平成15年、18〜⑸鶴田吾郎『半世紀の素描』中央公論美術出版、昭和57年、140〜159頁⑹前掲、平瀬論文― 73 ―年昭和10年(1935)、矢崎好幸によって、『セメント工芸』(丸善株式会社)が刊行されたのを皮切りに、12年1月、日本ポルトランドセメント同業会より雑誌『セメント工芸』が創刊され、セメントの工芸品・彫刻作品への応用が積極的に研究されるようになる。彫刻家たちもこれに呼応し、14年にセメント美術工作研究会が、15年には第三部会、二科会会員たちの呼びかけでセメント彫刻家連盟が組織される。こうした動きのなかで、セメントを金属の代用品としてではなく、彫刻を革新していく可能性を秘めた、新しい素材として着目する彫刻家が現われ始めるのである(注21)。この流れが行き着いたところに、軍需生産美術推進隊の存在もあった。中村直人は、昭和16年の第5回日本壁画会展にセメントレリーフ《勝利》を出品、戦後の26年にも、小野田セメント主催の「秋の野外創作彫刻展」に白色セメント《マントヒヒ》で参加している。このほか、中川為延、長沼孝三、中野四郎など、戦中・戦後にかけてセメント彫刻を得意とし、モニュメントの制作でも活躍した彫刻家が、軍需生産美術推進隊には、少なくなかった〔図13〜15〕。彼らの生涯を辿ってみるとき、戦中と戦後を繋ぐ存在として、同隊の存在が浮かびあがるのである。軍需生産美術推進隊の坑夫像は、いずれもひとつの目的のために産み落とされたにもかかわらず、それぞれの作品が辿った運命は様々だ。ある像は町の文化財として大切に守られ、ある像はいつ、誰によって造られたかすら伝わっておらず、ある像はレプリカに台座を譲りその役目を終えた。なかには地域の人々が、あるいは私たちが無関心であったがゆえに、たまたま現代まで残っていた、ということもあるだろう。そうした作品は、今も今後も、常に風化、撤去の危機に晒されているといってよい。今後、これらの作品の保存を進めていくためにも、美術史上の位置づけが求められている。48年)。正しくは、挺身隊は推進隊、新京芸術院は新京美術院。33頁
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