― 74 ―■ 田中修二「セメント彫刻の戦前・戦中・戦後」『屋外彫刻調査保存研究会会報』2号、平成13年、謝辞調査にあたり、平瀬礼太氏(姫路市立美術館)、三輪正氏(越後出雲崎天領の里)、梁井朗氏、ホームページ「■別物語」、水巻町歴史資料館に、貴重な資料をご提供いただき、ご助言をいただきました。記して謝意を表します。⑺円鍔勝三『わが人生』時の美術社、昭和64年、50〜51頁⑻昭和20年までに、隊員は63名まで増加し、地方に疎開した約10名を予備隊員とし、東京在住の40名余が本隊になったという。また、岩田専太郎や漫画家横山隆一のように、脱会した者もいた(前掲、平瀬論文)⑼このことは当時の新聞記事によっても確認できる。「逞しき鉱兵進発の像」『北海道新聞』昭和⑽『広報星の降る里あしべつ』平成7年12月号、平成10年6月号⑾「“滅敵”の像 炭鉱へ彫刻家の声援」『朝日新聞』昭和19年9月12日⑿石膏原型は古賀一人の制作と思われるが、《躍進》自体にはサインは刻まれていないため、セメント像の本制作にあたっては共同制作がなされた可能性がある。⒀菅野勝雄「炭砿遺産を見て保存を考える」『常磐炭田史研究』1号、平成16年。同「続 炭鉱遺産「坑夫の像」について」『常磐炭田史研究』2号、平成17年⒁井上由理「清水多嘉示資料解題―昭和の記録」、『清水多嘉示 資料・論集Ⅰ』武蔵野美術大学彫刻学科研究室、平成21年、246〜289頁⒂前掲、井上氏論文⒃蛭田耕一『ここ磐陽の学び舎に』私家版、平成元年、59〜63頁(『浜通り風土記』いわき歴史愛好会、平成8年に再録)⒄「美術界 八・九月」『美術』9号、昭和19年11月、34頁⒅「増産の象徴」『新潟日報』昭和19年9月26日、4面⒆前掲、平瀬論文⒇藤本韶三「アーティスト・インタビュー」『三彩』424号、昭和58年1月(前掲、『わが人生』に再録)19年7月5日を参照26〜42頁も参照
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