― 80 ―係する書簡等に基づき、制作年代は通常、1609年10月頃から1610年7月頃にかけて、つまり、カラヴァッジョの第二ナポリ滞在期と推定される(注9)。そして、画家がこの絵を描いた目的は、ローマに住む美術愛好家のシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に贈るためであった(注10)。1610年7月初頭、この枢機卿に絵を届けるべく、カラヴァッジョは2度目のナポリ滞在を切り上げ、船でローマへ向かう。もっとも、このとき、絵が枢機卿に手渡されることはなかった。この旅行中、カラヴァッジョは熱病に侵され、ローマにたどり着くことなく、7月18日にトスカーナの港町ポルト・エルコレで死亡したからである(注11)。絵は再びナポリに戻され、この地に在住するカラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナのもとに運ばれた。7月29日、彼女の邸宅を訪れた、ボルゲーゼ枢機卿の知人でナポリ駐在ローマ法王大使のデオダート・ジェンティーレは、枢機卿に宛てて書簡を送り、画家の遺品の中にこの絵が含まれていたこと、そしてそれが枢機卿のために描かれたものであったことを伝える(注12)。だが、そのわずか数日後、絵は何者かによって奪い去られてしまう(注13)。ジェンティーレは絵を取り戻そうと奔走し、12月10日までに奪回に成功する(注14)。その後、絵はすぐにボルゲーゼ枢機卿のもとへ発送されるはずであった。ところが、当時スペインからナポリに派遣され、同地を治めていたスペイン副王ペドロ・フェルナンデス・デ・カストロが、この絵の模写を所有したいと望み、その制作のために絵を貸し出すよう要請してきたため、ジェンティーレはこの求めに応じなければならなくなる(注15)。絵の貸し出しは、翌1611年8月のはじめ頃まで続いた(注16)。そして、8月の終わり頃、絵はようやく、本来の受取人であるボルゲーゼ枢機卿に送り届けられ(注17)、彼の美術コレクションに加わった(注18)。かくして、この絵は今日、同コレクションを母体として20世紀初頭に設立されたボルゲーゼ美術館の一室を飾っている。次いで、今述べたカラヴァッジョ作品の来歴を、1607年頃から1610年代前半にかけてのバッティステッロの動向と照らし合わせてみたい。すると、この時期のバッティステッロには、カラヴァッジョの絵を実見する機会が少なくとも3度あったことが明らかになる。第一の機会は、カラヴァッジョがナポリでこの絵を描いてから、絵を携えてローマへ出発する1610年7月初頭の間である。当時、バッティステッロは、ナポリにある自らの工房で制作を行なっていた(注19)。ナポリ滞在中のカラヴァッジョと接触し、彼から直接教えを受けたとされるバッティステッロが、画家の手もとにあった絵を目にした可能性は十分にある(注20)。第二の機会は、絵がスペイン副王に貸し出され
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