鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 89 ―使徒の補欠として選ばれる。『クルドフ詩篇』はf.113の余白に、細かくリンクマークを用いて本文と対応させながら、キリスト伝サイクルに基づいた図像を並べ、詩篇本文と並行して図像だけでも連続した意味を成すようにした。特にユダに施されたリンクマークは、悪魔と並んで立つ時も悪魔の持つ縄で首を吊る時も同じ印が用いられて、対応する本文から死刑が暗示されている。108:8の後半は使徒言行録に引用されているため、マティアが描かれることは至って自然だが、そこにユダの死の場面を悪魔と共に描き込むことからも、ユダの罪が強調されていることが窺える。詩篇本文に個々の挿絵を施しながら、挿絵同士が結び付いてキリスト伝などの新約エピソードを物語るのは余白詩篇の重要な特徴だが、このジャンルが登場する9世紀の時点で既に洗練された構成が見られる。『バルベリーニ詩篇』f.189v〔図2〕には「昇天」が描かれる。天に上るキリストを表した図像にも拘わらず余白下方に描かれるのは、記号が示すように、本文の一番下の行(107:6「高くいませ、神よ、天の上に」)に対応しているためと考えられる。『クルドフ詩篇』の同章句の欠損部分に同じものがあった傍証となろう。f.190vに「ゲツセマネの祈り」と「ユダと悪魔」、向かい合うf.191に「首を吊るユダとマティア」が描かれ〔図3〕、殆ど『クルドフ詩篇』の図像をそのまま写したかのように見えるが、対応する本文を確認すると、変更が加えられていることが判る。リンクマークを見ると、「ゲツセマネの祈り」は107:13「苦難から私たちをお救い下さい、人の救いは虚しいのです」と結びつけられている。また「ユダと悪魔」には対応関係を示す記号がないが、同頁に書かれた本文から、108:2(後半)「罪深い者の口、狡猾な者の口が私に向かって開き」に対応すると思われる(注12)。どちらも、『クルドフ詩篇』の同じ図像より前の章句に移されている。向かい合うf.191のユダとマティアは、108:8の前・後半にそれぞれ対応しているが、「ユダと悪魔」のユダにはリンクマークがなく、『クルドフ詩篇』のように2回描かれるユダが共に108:8の前半と結びつけられて、死に至る罪を強調されることはない。『バルベリーニ詩篇』がこのような変更を行ったのは、何よりも挿絵のレイアウト上の要請と考えられる。余白詩篇は、予め用意した余白に描く形式上、特定の章句の近くに挿絵を施せるが、本文の文字送りだけは写字生の筆にかかっている。『クルドフ詩篇』と同じように、「ゲツセマネの祈り」を複数章句に対応させようとしたら、挿絵に関わる本文が頁をまたぐことになり、テキストと挿絵の両方を1頁に収めるこ

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