鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 90 ―とが出来なくなる。また、ユダと悪魔を108:6「悪魔を彼の右に立たせよ」に対応させるならば、「首を吊るユダとマティア」と同じフォリオに描くことになり、「ゲツセマネ」と離れてしまう。実際には、対応章句を移すことで、『バルベリーニ詩篇』の「ゲツセマネ」と「ユダと悪魔」は、「首を吊るユダとマティア」と向かい合って描かれることになった。『クルドフ詩篇』では一頁に収められて密接に関わり合っていたモティーフが、見開きという一単位で対峙し、時間の流れを含んだ因果関係を示している。直接的に使徒言行録と結び付く108:8の挿絵は動かせないとしても、その手前の図像を本文と関連付けながら移動させ、レイアウトに配慮している様子が窺える。神に祈りを捧げたキリストを群衆に引き渡したユダは、その結果、呵責の念に耐え切れず首を括ることになる。移された二つの図像はそれぞれ、組み合わせても大きな矛盾の生じない新たな本文と結び付けられ、更に物理的に向かい合わせになることによって、挿絵のみでも連続した意味を形作る。『テオドロス詩篇』では、大胆な改変が行われている。f.149には「昇天」が描かれるが〔図4〕、先に見た2冊とは異なって、107:8「わたしは高められて、シケムを分けよう」と記号で結びつけられている(注13)。その下、『バルベリーニ詩篇』と同じ107:13に「ゲツセマネの祈り」が描かれる。9世紀の作例と比較して「昇天」が後ろに、「ゲツセマネ」が前に移されたわけだが、その理由は詩篇本文の文字送りと関わりがある。元来「昇天」が描かれたはずの章句である107:6は、『テオドロス詩篇』では前の頁f.148vに書かれている。また、「ゲツセマネ」が描かれたはずの108篇は、次の頁f.149vから始まる。もし『テオドロス詩篇』が9世紀の作例と同じ本文に挿絵を施したならば、「昇天」と「ゲツセマネ」は離れた頁に描かれることになっていた。現在の状態は、元来107:6の「高くいませ」という単語に関連付けられていた「昇天」を、同じ単語を用いている107:8の「高められて」に結びつけたものである。また、「ゲツセマネ」の移動は、先に述べた『バルベリーニ詩篇』と同一の操作である。対応章句を変えてまで挿絵を移動させたのは、この二つの出来事が同じ場所で起こったからである。「ゲツセマネの祈り」は「オリーブ山の祈り」とも呼ばれ(ルカ22:39)、「昇天」はオリーブ山を舞台としたことが使徒言行録1:12に記されている。オリーブ山というトポスを鍵として、これらのモティーフを上下に配することで、『クルドフ詩篇』や『バルベリーニ詩篇』においては「ゲツセマネの祈り」や「使徒の交代」といった一連の挿絵とは関連付けられていなかった「昇天」を、これから論じるサイクルに組み込んだのである。

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