― 91 ―頁をめくるとf.149vに聖エピファニオスが描かれている〔図5〕。これは11世紀の余白詩篇に特有の聖人導入現象のひとつで、別の文脈で説明されるべきであるため、本論では触れず、元来「ゲツセマネ」が描かれた箇所には別の挿絵が置かれていることを確認するに留める。更に頁を進めてf.150に「首を吊るユダとマティア」が描かれる。注目すべきは、この挿絵が対応する本文の108:8(後半)「彼の職務は他人が取れ」はこの頁の第一行目に書かれ、同章句の前半、ユダの死を暗示する部分は向かい合うf.149vにあるということである。先の2写本においては、108:8の前半は繰り返しユダと結び付けられ、彼の犯した罪とその結果とを強調していた。本文の改頁の仕方に加え、リンクマークで示された対応章句は108:8の後半のみであること、また、先の2写本には描かれていた「ユダと悪魔」の挿絵が省かれていることから、『テオドロス詩篇』はユダが犯した罪の強調に主眼を置いていないと解る。同写本は画家と写字生が同一で、文字送りやレイアウトの細かな調整によって様々な改変を行っていることで知られる。ユダは確かに悪魔の持つ縄で首を括ってはいるが、むしろマティアがその空席を埋めて交代したことこそが示されているのである。そのように解するもうひとつの根拠は、先に見たf.149の挿絵である。筆者は以前、『テオドロス詩篇』の、頁をめくると重なる位置に連続して描かれたキリスト伝挿絵について論じ、頁と挿絵の物理的な重層性に加え、旧約詩篇とイザヤ書、新約キリスト伝の物語内容が層を成して重なる現象を指摘した(注14)。余白詩篇写本では見開きもひとつの重要な単位だが、左頁あるいは右頁だけに時間的に連続した物語挿絵がしばしば配され、個々の図像が対応する詩篇本文と結び付きつつ、頁をまたいで重なる位置に配された挿絵群がそれのみで物語を形作ることがある。これまで指摘されてこなかったが、『テオドロス詩篇』f.149とf.150もそのひとつである。f.149は単独でも、オリーブ山というトポスを鍵に、対応章句を移動させて「昇天」と「ゲツセマネの祈り」をひとつにまとめた頁だが、更に頁をめくってf.150の「ユダとマティア」を連続したモティーフだと解すると、これらが使徒言行録の小さなサイクル挿絵になっていることが判る。「昇天」は使徒言行録1:6〜11で語られる場面であり、「マティアの選出」はそれに続く1:12〜26に起こる出来事である。「ユダとマティア」は、悪魔が持つ縄で首を括るユダが強烈な印象を放つが、文字送りとリンクマークから、この図像は108:8(後半)「彼の職務は他人が取れ」に施されたものであることが示されている。9世紀から続く、本文と組み合わせてユダの罪を強調するリンクマークを用いず、「ユダと悪魔」の図像も採用しなかったのは、『クルドフ詩篇』や『バルベリーニ詩篇』とは異なる文脈を示すためではなかったか。同じ図像を基本的には用いな
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