鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 101 ―〔図15〕。3期に共通するウートン様式独特の特徴としては額と髪の生え際の間にライプラソックという細い帯状装飾を巡らせ、中央がくぼんだ形状の台座に坐す。4−3.ロッブリーロッブリー様式はクメールがタイ地域に進出した際に発生した様式で、タイにおけるクメール彫刻である。ナーガ上に坐す仏陀坐像や定印を結ぶ仏陀坐像〔図16〕、施無畏印の仏陀立像のほか、右手を胸前に添えるタイプの仏陀立像もみられる〔図17〕。しかし他様式の仏陀立像とは違い、掌に花文様を彫り込んでいるのが特徴である。ワット・プラ・シー・ラタナー・マハタートやプラ・プラーン・サム・ヨートなどは元来クメール建築であったが、後世に改変・改築を繰り返されたとみられる。4−4.スコータイスコータイは、13世紀中頃から15世紀中頃に位置づけられる。チャオプラヤー川上流に位置し、13世紀前半にクメール勢力を撤退させたタイ族によってスコータイ王国は成立した。第3代ラームカムヘーン王がスリランカ伝来の上座部仏教を国教と定め、王国を繁栄させたといわれている。スコータイの都城は、城壁と三重の環濠に囲まれた四角形を呈している。中心寺院であるワット・マハタートは、上座部仏教の寺院であるが、都城内にはクメール建築を改変して造営されたワット・シーサワイやワット・プラ・パイ・ルアンなどが存在し、クメールの名残りを感じさせる。一方、スコータイ様式の仏像は流れるような曲線美が特徴で、片足を一歩踏み出して歩く姿を表す遊行仏は有名である〔図18〕。当期の仏像は偏袒右肩で半跏趺坐で坐し触地印を結ぶ。また肉髻の上にラッサミーを置き、顔貌は卵型、弓を張ったような眉が特徴的である〔図19〕。近年のタイ人による研究ではスコータイ都城はアンコール・トム都城の影響を受けて造営されたという説がある(注6)。また吉川は、スコータイ碑文の中には、クメール文字で書かれたものが存在しており、スコータイ王朝におけるクメール族ないしクメール文化の影響の大きさ対して等閑視すべきではないと指摘している。筆者はこの指摘は重要なものであると考える。まさにポスト・バイヨン期にあたるこの時期にスコータイとクメールが交流ないし関係性があったということは特筆すべき事項であろう。4−5.アユタヤ1351年ラーマティーボディ1世(ウートン王)がチャオプラヤー川流域に興した王朝である。15世紀にはアンコール王朝を攻略、スコータイを併合し版図を拡大させ、1767年ビルマに滅ぼされるまで繁栄を続けた。アユタヤでは上座部仏教が国教とさ

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