鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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1.はじめに中世の建築界の動きについて考察すると、地方における建築の活動が非常に盛んとなり、特に応仁の乱・文明の乱(1467〜1477)の二大乱以降は地方の建築が中央の建築を遥かに凌ぐ勢いを示したことである。社寺建築の現存遺構数にもとづいて古代については中央が地方の約6割を占め、鎌倉時代では中央と地方が約半々程度に、それが室町時代になると、中央は地方の約3割程度を占めるにすぎず、これからしても地方の建築界の勢いを示していることが十分に察せられるであろう。言うまでもなくこのような遺構の状況は、遺構という史料の性質上、たまたま現存するということは免れ得ないものであろうし、これが直接当時の建築界の状態を示すことの根拠とはなり得ないであろう。さらに中央が戦乱であったことを考え合わせれば、当然の如く割り引いて考える必要もあろう。しかし中央政府の確実な衰退と守護大名の発達による地方勢力の勃興の強い影響は見逃せない。1.2010年度助成研 究 者:秋田公立美術工芸短期大学 産業デザイン学科 教授  これが最も顕著に現れているのが、西日本の大内氏である。なかでも第31代・義隆は在国のままに従二位兵部卿に上がり、名実ともに西日本一の大名といわれる圧倒的な地位に就き、本拠地の山口は『西の京』と称されるまでに至った。大内氏の築いた文化もこれに呼応している。東西から加えられた刺激と大内氏歴代の主体的、積極的意思による文化の摂取により大内文化の形成、発展した。義隆時代になると都人が大内文化の客人になることによって行われた。その1例として画聖・雪舟は大内氏の庇護と大内氏治下の文化的環境によって画法を大成し、雲谷派として流伝していく。また、大内歴代は北九州の経営にも力を注ぎ、貿易による莫大な利益は富力を増し、武力とも関わり領国の安定にもつながった。大内氏は意欲的に大陸文化を摂取し、唐物文化、大陸的色彩を色濃く残していった。さて、大内氏時代に建立された建築についてみると寺院建築14棟、社殿建築12棟が― 1 ―澤 田   享① 中世社寺建築における細部意匠の美術史的研究─主に山口地方の社寺建築を中心にして─Ⅰ.「美術に関する調査研究の助成」研究報告

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