鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 110 ―が多い。また神社の境内、特に天神社に付き物のモティーフとなっており、菅原道真と梅とのイメージの結び付きが、飛梅伝説などによって一般化していたことを窺わせる。そして天神となった道真の象徴とも謂える梅のイメージに、神性が付加されたことは想像に難くない。同時に、道真は儒教文化の体現者でもあったから、それと結びついた梅は、清廉・潔白という中国由来のイメージを持ち続けていたと推測される。以上の傾向から、総体として梅には、みやびな都市的文化を表象するイメージが、日本の風土に根付いた形で、中世に継承されていたと看做される。また絵巻中には紅梅が多いが、絵画的効果と共に、平安時代に培われた華やかな装飾性を求める嗜好が反映されているとみられる。尚、その描写には13世紀末頃の絵巻では青葉の姿などもあり、前代よりも写実的な嗜好が窺われ、また見事な枝振りを示すものがある。これについては、当時舶載が活発になった墨梅図などの宋元画の影響を認めるのが自然だろう(注8)。すなわち、当作品の枝振りの良い紅梅は、平安時代以来の好尚を如実に伝えながら、1300年頃の新傾向も反映しているとみられる。次に、松に対する愛好とそれに纏わる文化的営みは、梅以上に多様な展開を遂げており、ここでは詳述し得ないが、倭絵に描かれた事例と、絵巻中の諸例を中心に考察したい。その前提として、以下の点をまず挙げる。松は7世紀後半の飛鳥京の苑池に植生されていた可能性が指摘され、すなわち造園の重要な要素であった歴史は長い。また巨木は神宿るところという発想が、当時、既に存したという指摘も興味深い。さらに奈良時代には海岸沿いには松の林の存在が指摘されると同時に、平城京の庭園にはアカマツ以外に、海岸性のクロマツを移植した可能性が挙げられている(注9)。以上から松は日本人にとって、梅よりも時間的・空間的に広範な視覚イメージとして作用してきたことが言い得よう。『万葉集』には107件詠われ、「神さびて」「千代松」なる樹、すなわち神性と、長寿という吉祥性がそのイメージとして認められる。また「住吉」など、平安時代に整備されていく名所の松を詠んだものもある。さらに松─待つに掛けた歌から、恋に関わるイメージも既に形成されている。遺品の上では、「絵因果経」や「紫檀木画槽琵琶捍撥画」の存在から、少なくとも8世紀前半には、聖俗両方の唐的イメージが齎されていたことも知られる。次に平安時代の倭絵におけるイメージを見ていきたい(注10)。まず「人の家松」と同時に水辺や海辺の松が描かれていることから、奈良時代以来の、庭園の松と自然景の中の松に対する愛好が挙げられる。次に「松に浪こえたる所」というのは恋のイメージであるが、それ以上に風流の表出が強いといえる。倭絵に、もっとも多く詠わ

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