鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 112 ―測される。さらにその正統的な倭絵描写は、平安時代を通じてつくられた多層的イメージの喚起に有効であったに違いない。しかし松において指摘したように、あまりに長く、広範な伝統の中で培われてきたイメージは、ともすると新鮮味を失い、凡庸なものとなる危険性を持つ。そのように考えると、以上のモティーフを集め、際立たせともいえる「四季花木図屏風」は、何故、いわば凡庸性の危険を冒したのだろうか。ところで、これら松・竹・梅は、現在では〈松竹梅〉という一纏まりの吉祥を表すモティーフとして捉えられることが多い。それは普遍的で伝統的なイメージのようであるが、意外なことに、これら三者を揃える淵源は13世紀頃までしか遡れないようである(注12)。そのイメージは良く知られるように歳寒三友─厳寒期にも色を変えず、あるいは花開くことから、節を曲げない高潔な友─を表す。遺品としては、13世紀の趙孟堅「歳寒三友図」(台北・故宮博物院)、14世紀の海涯「歳寒三友図」(妙満寺)、15世紀初の「雪裡三友図」(古幢周勝(1370−1433)等賛)が挙げられ、13−15世紀に中国・高麗・日本において描かれていたことが知られる。また伝周文「三益斎図」は、応永25年(1418)の年記を持つ玉畹梵芳の序文が付属し、それによれば東福寺の侍者中和が、自分の書斎に「三益」と命名し、その額を掲げ、画家に注文して、松竹梅下の書堂を描かせた(注13)。画面には3本の丈高い松と、書堂を囲むように竹と梅が描かれる。この他、15世紀後半には、松竹梅を描いた扇面に三益の詩を詠んだり(注14)、松竹梅を植えた書斎に三益斎と名付けたと詠む詩文(注15)などがあり、禅林とその周辺という限定はあるかもしれないが、歳寒三友としての松竹梅のイメージが、日本において一定の広がりを持っていたと考えられる。それらの作品は、現存遺品からみる限りは水墨画であるが、扇面に描かれたものは着色画の可能性があるから、「四季花木図屏風」とより近しいものといえる。さらに海涯「歳寒三友図」及び「雪裡三友図」を見ると、2本の丈高い松が中央に描かれ(注16)、その両脇に1本の梅と数本の竹が配される。また特に前者では〔図2〕、松竹梅が、ほとんど並列に置かれていることが注意される。「四季花木図屏風」では、松はやはり2本配され、その右方に1本の梅が、紫陽花・小姫百合を挟むが、左方に5本の竹が、並列的に描かれている。2本の松の内、左が右より丈低いことも3作品共通している。ここには、何かしらの視覚イメージの連関が存したと考えられるのではないか。すなわち「四季花木図屏風」の松・竹・梅には、少なくとも15世紀前半には知られていた歳寒三友のイメージが、付加されているのではないだろうか。しかしながら、それはこの屏風の発するメッセージが歳寒三友の意味に収斂したこ

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