― 121 ―する面貌表現がみられる。さらに、右手に持った枝を担げ、体をひねり下方をみつめる体躯の表現についても近似しており、雪鼎の《藤娘図》は、豊麗で上品な雪鼎風美人図として描かれている。つまり、ここでは、大津絵の運筆に対する関心は見られず、「藤娘」という図様に関心が向けられていると言える。次に、近世大坂画壇における写生派を代表する画家である森一鳳(1798−1872)が描いた《赤鬼青鬼図》(関西大学図書館蔵)〔図10〕について検討する。《赤鬼青鬼図》は、右幅に赤鬼、左幅に青鬼を描いた双幅であり、双方とも袈裟をまとい、首から鐘を提げ、右手には撞木を持った僧侶姿の鬼である。これらの特徴から、大津絵の「鬼の念仏」に着想を得ていることは明らかであるが、先述した雪鼎筆《藤娘図》と同様に、大津絵の画風とは異なる。赤鬼の顔や髪の毛は、筆のかすれを利用して激しく荒々しいタッチで描かれている。また、衣装や青鬼が持つ金棒には、輪郭線を描かない付立技法が見られ、円山・四条派の画家が得意とした技法が用いられている。衣類に見られる大胆で勢いのある筆さばきは、大津絵の運筆を意識しているとも考えられるが、大津絵ほど簡略化されてはおらず、基本的には大津絵のものとは異なる。従って、一鳳筆《赤鬼青鬼図》においても、大津絵の運筆よりもむしろ、「鬼の念仏」の図様に関心が向けられていると言える。このように、定型化した大津絵の図様は、専門画家の間でも繰り返し描かれ、典型的な絵画主題の一つとして定着するようになった。とりわけ、「藤娘」においてその傾向が顕著であり、「藤娘」は美人図の典型として、近代に入っても北野恒富(1880−1947)ら多くの美人画家が好んで描いた。⑶ ユーモアに対する関心複数の大津絵図様が自在に組み合わされ、様々な創意工夫や趣向を凝らした機知に富んだ作品もみられる。例えば、歌川国芳の《浮世又平名画奇特》(嘉永6年・1853)(京都府立総合資料館蔵)〔図11〕は、近松門左衛門作『傾城反魂香』「又平住家の段」に取材した役者絵である。画面右下に又平が描かれ、その手前には大津絵が散乱し、これらの絵から大津絵の精が抜け出したという趣向になっている。右側から順に「雷」「鷹匠」「下法の梯子剃り」「藤娘」「座頭」「鬼の念仏」「瓢箪鯰」「釣鐘弁慶」「槍持ち奴」を配し、それぞれ役者の顔に似せて描かれている。さらに、「鷹匠」の衣装の袖には、「かん」という文字が記されているが、鈴木重三氏によると、これは、当時、疳症公方様と呼ばれた十三代将軍家定を暗示するとされ、本図は異国船の来航にあわてふためく幕府を揶揄した風刺画であるとの解釈もある
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