3.大津絵受容の背景ここまで、大津絵に着想を得て描かれた作例を三つのパターンに分けて紹介し、専門画家は大津絵のどのような点に興味を示したかについて論じた。では、当時の画家は一地方の土産品に過ぎなかった大津絵に、どうしてこれほどまでに関心を抱いたのであろうか。例えば、江戸後期の戯作者・浮世絵師として活躍した山東京伝(1769−1858)は、大津絵の愛好家として知られ、『近世奇跡考』(文化元年・1804)並びに『骨董集』(文化11年・1818)において大津絵の来歴等の諸問題について独自の論考を展開している。また、英一蝶は『近世奇跡考』巻之四において、大津絵「相撲図」の縮図に「大津絵に負なん老の流足」と画讃を添えている。これは、画家である一蝶が大津絵と相撲のように争ってみても勝ち目がないと述べたもので、一蝶が大津絵を高く評価していたことを窺わせる資料である(注8)。このように、大津絵は同時代の画家の間で、ある一定の評価を得ており、以下ではその背景について考察することとする。― 123 ―的要素やユーモア精神は、国芳や暁斎など戯画を得意とした作家の制作意欲を刺激し、彼らの絵画作品に好んで採用されたのではないだろうか。⑴ 一流派としての扱い『本朝世事談綺』(享保19年・1734)は、古代から近世までの時期に評判となった様々な文物を紹介しており、その中の「文房門、画図」の部において、次のような記述がある(注9)。大津絵 又平と云人書はじめし也。土佐光信の弟子といへり。大谷、池の側邊にて畫く。追分繪とも云。大津絵師や大津絵が描かれた場所について簡単に言及したに過ぎないが、注目すべきは「大津絵」の項が「土佐流」「雪舟流」「曽我流」「浮世絵」「一蝶流」「光琳絵」などの諸流派と並列して記されていることである。また、喜多村信節著『嬉遊笑覽』(文政13年・1830)の書画の部においても、「早かき」「一筆がき 嗚呼繪」「鳥羽繪」「浮世絵」「一枚畫 べにゑ 漆繪 彩色繪」など、特定の画法や絵画のジャンルともに大津絵が紹介されている(注10)。これらの資料から、大津絵は当時の流派概念とは大きく異なる存在であったにも関
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