― 124 ―わらず、一定の絵画的特徴を持ち合わせていたことから、一流派に類する扱いを受けていたと言えるのではないだろうか。江戸時代、とりわけ、江戸時代中後期に活躍した画家は、他流派の画法を積極的に習得しようとする傾向がみられた。そうした各派融合の環境において、大津絵は諸流派と同様に、学ぶべき対象の一つとみなされ、専門画家の関心を集めたと考えられる。⑵ 上方土産としての大津絵の評判また、大津絵が「追分絵」あるいは「大谷絵」などの産地名を付した呼称以外に、「浮世絵」とも呼ばれていたことは、既に先学が指摘するところであるが(注11)、大津絵は浮世絵、とりわけ東錦絵との関連の中で語られることが多い。例えば、渓斎英泉は浮世絵の論考書である『無名翁随筆』(天保4年・1833)において、次のように記している(注12)。東都第一の名産として、他鄕の者江戸より歸るには、江戸繪と云て、必ず是を求る事となれり、世俗之を一枚絵といふ。先に山東醒世翁曰、延寶天和の比の一枚繪といふ物を藏せる人ありてみるに、西の内といふ紙一枚ほどの大きさありて、おほくは武者繪にて丹緑青黄土をもてところまだらに色どり、大津繪の今少し下手ぎはなる物なり、畫はみな上古の土佐風にて甚よし、畫者の名はしるさず、もとより歌舞伎役者遊女の類ひの姿をかゝず、元禄のはじめより役者の姿をかきはじむ、丹と桷といふものにて色どれり。また、天明元年(1781)に刊行された黄表紙『東都みやげ大津名物』(伊場可笑作、北尾政演画)〔図15〕では、大津絵と錦絵との関連が物語の鍵となっている。話は大津絵師と客との会話から始まり、近頃の景気を尋ねられた大津絵店の亭主は、江戸で錦絵が評判になっているため、売れ行きが良くないことを告げる。それを聞いた、大津絵の親玉である「鬼の念仏」は、江戸の様子を見るために、夜中に絵から抜け出し藤娘とともに江戸の様子を見物して故郷の大津へ帰るというストーリーである(注13)。ここでも、「江戸土産である錦絵」に対して、「上方土産としての大津絵」という対比が鮮明に表れている(注14)。先述した喜多川歌麿の《江戸仕入 大津土産》においても、やはり歌麿が描いた錦絵美人風の「鷹匠」と、又平が描いた大津絵風の「槍持ち奴」が対置され、これらはいずれも錦絵の華やかさや優位性をより強調するために大津絵を用いているとも解釈
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