3)蟇挿し込む(以下、半割状挿斗とする)ものがある。一般的にはそこには楔を使用し、僅かにその木口がみえる程度である。初例は功山寺仏殿である。この他、園城寺一切経蔵、同・輪蔵、法泉寺厨子、臨海院厨子、東仙寺厨子があり、社殿建築では住吉神社拝殿がある。その半割状挿斗を用いる主な箇所は①虹梁持送り組物、②裳階垂木掛を受ける挿肘木、③頭貫を受ける部分である。さらに根肘木と半割状挿斗との関わりをみると、功山寺仏殿は〔図2〕の如く上段根肘木のみ付加されるが、功山寺以外は総て根肘木下端に半割状挿斗を付す。また、根肘木下端への半割状挿斗を用いる構造的な効果(注3)については、根肘木の半割状挿斗が欠落した箇所を精査すると、その挿入は浅く、当初から斗を縮めていることが判明した。したがって、梁や根肘木垂下防止の効用は極めて薄く、山口地方での特徴と解してよいであろう。年代性については初例が功山寺仏殿(1320)であり、降って園城寺一切経蔵、同・輪蔵(室町中期)、臨海院厨子(1497)、東仙寺厨子(1499)、法泉寺厨子(1528〜32)、不動院金堂(1540)がある。これ等によりこの手法は鎌倉末期に出現し、室町前期の空白的時代はあるが、これからすると特に室町後期に多用された。初例の功山寺を除く6例については根肘木の最下端にも半割状挿斗が付加されており、それが年代的変遷を示すと考えられる。なお、論旨は逸れるが、この手法は近世では大分県中津市に元和8年(1622)建立の薦神社神門(裳階部分、注4)、山口市の元文5年(1740)建立の正八幡宮楼門(向拝部分、注5)が今回の調査で発見された。僅か2棟ではあるが、かつては大内氏と深い所縁をもつ神社であり、その手法の解明が急がれる。いずれにしても意匠(装飾)であるが、視覚的にも装飾の豊かさ、安定を感じさせる意匠である。の間斗斗尻下部の内繰形(〔図3〕参照) 山口とその周辺域にある中世の蟇股内繰形上部に着目すると、通常とは異なった形状がある。一般的な中世の蟇股の斗尻下方の内繰形は〔図4〕に示す形状が大多数を占め、斗尻下方の中心軸を起点とすると、間斗斗尻上端部と斗尻下端のおよそ中点まで緩い反転曲線を描き、その点で茨を作り、その茨から肩に向って弧を描き、その終点でもう一つの茨を作り脚線に移行する。しかし、山口にみられる斗尻下方の内繰形は斗尻中心軸から斗尻上部(つまり間斗幅の1/2)から中心軸を下した点より下方に二つの凸状弧線を描き、弧線の終わり二つ目の茨から脚線に至る。この二つの凸状繰形は丁度、蟇股脚元を逆置した形状〔図5〕を呈している。この実例は山口に分布が限定され、八坂神社本殿、今八幡宮拝殿、古熊神社本殿(注6)、閼伽井坊多宝塔、清水寺山王社(注7)、正八幡宮本殿(注8)がある。この繰形をもつ実例は前記の如きであるが、最古例は応安7年(1374)と推測されることから、このことからすると室町前期に既に現われ、とりわ■■■■■股― 3 ―
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