― 130 ―⑬ 京都府画学校の研究【はじめに】【画学校の開校】研 究 者:京都市立芸術大学芸術資料館 学芸員 松 尾 芳 樹京都府画学校は、明治13年(1880)に京都御苑内に開校した、日本最初の公立絵画学校として知られる。この事実は、年表上の一項目として記憶されているものの、一般的な理解は漠然としており、誤解されている点も多い。いわゆる京都策の一環として産声をあげたこの事業の実際は、産業界と美術界の思いばかり先行する、見通しの利かないものであった。本研究は、その開校の経緯や教育内容について、現存資料を検討し、通行する誤解を改めるとともに、新たに確認された事実を提示して、その開校の意義を考察する。明治11年(1878)8月に田能村直入が、翌9月に幸野楳嶺、望月玉泉らが京都府知事槇村正直に、画学校の開設を建議した。両者に共通するのは、絵画の有用を喧伝し、その組織的教育の必要を説く趣旨である(注1)。人口が激減した京都を活性化するために、産業文化の興隆は官民を問わず切迫した課題だった。近世的体質を依然として持ち続けていた画家たちも、手を拱いているわけにはいかなかった。直入は、画壇の重鎮として一目おかれる存在ではあったが、明治維新になって京都に移った画家である。彼は京都策のなかで様々な新しい動きが試みられる中、師の田能村竹田がかつて設立を考えた画学校が開設できないかと考えた。その意味で直入が学校開設を建言した動機は私的だが現実的問題意識があった。一方楳嶺らの建議は、塩川文麟や森寛齊といった如雲社の古老が画学校の必要を意識していたのを背景に、田中有美の正倉院御物模本を織殿で模写をしていた楳嶺、久保田米僊、巨勢小石らの間で提起されたといい、大義はあるが理念的だった(注2)。そして建議を受けた京都府は、産業界からの陳情を受けて、画家たちの思惑を無視できない必然があり、産業振興のため画学校開設を勧業課の事業として行ったのである。明治12年(1879)11月に京都府知事が、文部省に提出した学校創立届けによれば、まず学校の開設は民意を反映するものとし、その建設や運営経費は総て民間からの寄付によるとしている。そして、流派を基準にした四宗に教室を分割すること、教員は府下から公選することなど、学校の骨格について言及している。この学校は通常公立学校と記述されるが、創立届けを見てもわかるとおり、当初の
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