鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 131 ―【画学校出仕】構想は、その設立運営経費の全てを寄付にたより、公費の投入を前提としなかった。直入が府側に提案したと考えられる運営資金構想も、寄付と基金設置による利子に頼るものである(注3)。府としては多額の寄付によって開校した盲唖院の先例があったことが頼みであったが、実際には寄付が思うように集まらず、基金をつくるだけの原資を確保することができなかった。そのため、やむなく税金が投入されたが、府側の本来の意図ではなかった。京都府画学校の経営について詳細な記録はないが、明治22年(1889)に学校が京都市へ移管される際の処置に関する記録から判断する限り、税金で直接運営した学校ではなく、授業料などの自主財源と寄付と府税からの交付金によって運営する方法であったと思われる(注4)。それはちょうど今日の公立学校法人による経営に近いものといえる。直入は出雲地方行脚をはじめとして寄付集めに奔走する傍ら、自身も多額の寄付を行った。その存在は大きく、画学校出仕の制度設計に関わるなど、当初から学校構想の中心的な役割を果たすことになった。画学校の初代校長にあたる摂理に直入が就任したのは、学校開設の経緯から見て、当然のことと思われ、その役割は大きく顕彰されてよい。彼が摂理となったのは、摂理が無給の職であることから、その奉仕的立場を崩さなかったためである。直入は師竹田の画学校構想の実現を目的としたから、資金面を意識した現実的行動をとった。ただ楽観的な性情は、画学校に直接関わることになる画家たちとの調整に思いが及ばなかった。一方、楳嶺らは如雲社に関わる画家達の思惑を背景に、京都の画家達への働きかけを積極的に行ってこの部分を結果として助け、一見ばらばらに動く両者の活動と、勧業を推進する府側の思惑が偶然にも交差することによって画学校は開校を見た。ただ実をいえば明治5〜6年(1872〜1873)頃、府は在京画家による国絵図(京都府立総合資料館蔵)の模写事業を行ったほか、京都博覧会での席上揮毫への協力など、画家を招集する前例を重ねている。府と画家双方にとって全く手探りの共同作業ではなかった。絵画諸流派を一つの組織内で教授しようという京都府画学校は、当時としては画期的な美術教育の構想だった。この構想の萌芽は直入及び楳嶺の建議の中に表れているが、かなり広範な教育を行うことになるため、画学校出仕の制度が考えられた。これは、諸派から画学校出仕に任命された画家たちを神、妙、能、入格の四品に分かち、

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