― 132 ―それぞれをさらに三等にわけて12等級に評価し、それぞれの等級に従って、教育を分担し、給料を与えるというものであった(注5)。諸派を兼修するためには複数教員による授業の分担が必要であり、学習する内容の水準を整える必要がある。規則の策定には直入の見識が反映したと見なければならないが、画学校出仕の互選により個々の画家の等級を定めることは、ようやく事業に参加させた諸派の画家に対して、実現不能な構想であった。そのため当然のように方針は変更を余儀なくされた。明治13年(1880)6月に任命された43名の画家をはじめとして、明治21年(1888)までに、総数109名の画家が画学校出仕に任命された〔表〕。画学校出仕に任命されるには審査があったが、応募は自薦も可能で、或る意味で開かれたものだった。本来学校の教育を担うはずの画学校出仕は、直接教育に関わらない学校の外部協力員となり、画学校が主催する展覧会や講演会に参加するほか、揮毫頒布してその経営に協力する役割を果たす無給にして無任期の職となった。宮内庁三の丸尚蔵館の《京都府画学校校員画帖》は、そうした画学校出仕の協力関係の実際を示している。画学校主催の展覧会は、美術展の少ない時代に好評を得て、画学校の存在を主張するのに貢献した。画学校出仕の制度は、確かに京都の画家たちを刺激した。全国規模の絵画展覧会である明治15年(1882)第1回内国絵画共進会と明治17年(1884)第2回内国絵画共進会において、京都の画家は健闘を見せ、多数の受賞者を生み出したが(注6)、その大半が画学校出仕であった。後に京都画壇として認識されるまとまりが形成される過程で、画学校出仕制度がひとつの役割を果たしたといえるのは、画学校出仕の誕生を契機として京都の画家たちが、流派を超えた組織的連携を意識する機会を得たと考えられるからである。加えて、画学校出仕という呼称が、開業したばかりの青年画家や地方に本拠をおく画家にも与えられ、画家の肩書として通用する展開を見せたことは、この制度の影響力を示す事例として注目される。画学校の教員は、宗ごとに画学校出仕内で互選された。創立届けにあった教員公選は無実となっており、給与を得て教育にあたる教員となったのは各宗とも原則1名であった。そのため、校則上は諸派を教授したかにみえる画学校だが、実際は、教員となった画家が、担当各宗の教則を定め、教室を主宰するかたちとなった。従って、東宗は玉泉により、西宗は小山三造により、北宗は楳嶺により教則が検討され、出仕合議で教則を協議した南宗も実際は池田雲樵の実務的検討により各専攻の教授内容が決定した。その意味では従来の画塾とよく似た教育形式となっており、校則に説かれるような、「東宗 土佐派円山派等所謂大和絵ノ派、西宗 罫画油絵水画鉛筆画等、南宗
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