鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 133 ―【画学校の教育】所謂文人画、北宗 雪舟派狩野派等」という四宗に宛てられた専攻分野は、実際のところあまり意味をなさないものとなっていた。画学校は開校前から御所の東南隅を予定校地としていた。建議書とともに遺る画学校の校舎平面図は、直入と楳嶺が書いたものである。基本的な建物の規模は一致しながらも、四宗の学舎としてそれぞれの独立性を意識した直入に対し、工業所をはじめ花卉園、運動場、病室などの附属施設の充実を訴求する楳嶺という、考え方の違いが浮き彫りになっている。学校は講堂を中心に左右対称に学舎を設け、近世の藩校郷校の形式をうかがわせる。学校の設計が近代的な思想から発想されたものではないことが理解され、この守旧的な構想のありかたは、教育内容にも反映した。画学校の教育は、各宗とも原則として半年を単位とした。6級から1級に至る六つの課程を習得して3年で卒業するのを基準としたが、南宗はさらにそれを2回繰り返して9年での卒業となった。入学資格は14歳以上の男女であったが、下等小学校卒業以上であれば入学できたので、さらに早い入学も可能だった。教則は開校時に宗ごとに検討されたものが使用された。9年の修学を必要とした南宗の場合、期間に余裕があるためか、花鳥、山水、人物という順番に画題が展開し、墨画から著彩画へと技術が高度化し、写生に習熟するに従って自己の考案による応用制作に結実してゆくという、正統的教程を見せる。東宗、北宗においても、簡略化は見られるが大筋において南宗同様の教育課程を定めており、東南北三宗の科目を整理すれば、運筆法、模写法、写生法、著彩法、構図法を中心としている。これらの科目は、近世に諸種の画論書から画家の間でも知られていた謝赫の画の六法に対応したものと見られ、近世の画塾における教育を継承する様子がうかがえる(注7)。このうち著彩法と構図法については、応用画制作を行わない限り、結局他の運筆法・模写法・写生法の学習の中で学ぶしかない課題である。にもかかわらず、南宗を除いて、応用画制作への展開が希薄なところから、科目として重視されていたのは運筆法・模写法・写生法の三法と考えてよい。興味深いのは、橋本雅邦の「木挽町畫所」に記述される狩野派の画塾教育からもうかがえるとおり、近世では運筆法・模写法がその絵画教育の中心に置かれることが多く、写生は自由研究的位置づけであった。にもかかわらず、教則では写生法がかなりの重みを持って科目の中に取り入れられており、ここに写生に対する視点の変化が生まれていることを示している。四宗いずれにおいても、一塾でおこなわれているため、教室はひとつしかない。授

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