― 134 ―業時間中は異なる学級の生徒が混在して学んでいた。基本的に画学校の授業は、各自の与えられた課題を日々反復練習により自習するものであり、ときおり巡回する教員の指導を受けながら、学習成果として浄写を提出して評価を受ける方法がとられた。一枚の手本を4日程度練習して浄写に移ることになっている。実技から講義まで教授内容はさまざまであったものの、椅子や画架が使用されるのは明治35年(1902)からであり、基本的に室内は全て座業であった。当時の授業風景を見たならば、近世の画塾とさほど異なるところはなかったと思われる。このように画学校の教則を概観するとき、西宗を除いて考えれば、彼等が行おうとした教育は、近世に源流を持つ画塾を雛形にしたものといえる。しかしそれは、近世に比べて修業年限も科目も時代に適合した明確さを見せて、合理的に整理されており、多少なりとも他の門流へのまなざしも準備されていた。こうした近世から近代にかけて絵画教育の現場に生まれた展開がそのまま記録されているのが、画学校の教則といえる。京都府側は、開校当初から、工芸家教育のための工業科の設置を望み、京都の工商家を用掛という外部協力員に任命して、協力体制を作った(注8)。楳嶺の建議書にもあるとおり絵画には実用的な用途があり、府は絵画の産業への応用を期待したが、直入をはじめ、画家たちの多くは職工への教育に消極的だった。楳嶺は学校平面図に書いた工業所や北宗教則の中で工業課を示して、商工業と学校の接点を設けようとしたが、それとても画家が産業界からの注文を受ける場として設けられたものと考えられ、職工教育を画家が分担することは想定していなかった。府が望んでいたものと画家たちが望んだものには当初からずれがあり、校則の改正などの方法によりそのすり合わせを試みるが、実現に至らなかったのである(注9)。勧業政策への貢献は、画学校開校に寄せた府側の最も大きな期待であったが、これは実現しなかった。画学校は画家を中心に制度が作られたため、需要に対する認識は希薄であり、求める生徒像を描ききれていなかった。学校に対する府側の誤算は事業資金の問題のみならず、勧業施策にも及んでいたことになる。また学齢の低さや修学期間の短さなど教育制度の設計にもひずみがあり、慢性的な予算不足が生み出す不十分な教育環境は、そのまま教育成果の低さに結びついた。改革を余儀なく迫られることになった。画学校では明治21年(1888)、四宗を東洋画と西洋画の二専攻に整理するとともに、普通画学科、専門画学科の他に図案教育を行う応用画学科を設置するという改組を行った。四宗画学校の終焉とともに直入と画学校の関係も絶たれ、教員の交代が繰り返
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