― 135 ―【画学校の教材】される中、画家と学校との関係は新たな展開を迎える。京都府が学校開設に期待した産業界との教育的連携の道筋はここからようやく見え始めることになるが、翌年には生まれたばかりの京都市へと学校は移管されることになる。画学校の京都市移管に際し作成された校有品記録(注10)により、当時の学校で使用された教材の概要を知ることができる。目録では当時の校有品を「画幅」「画範」「書籍」「諸器械」「褒賞」に分類している。「画幅」は参考用絵画資料で大半は直入が寄付した中国絵画原本模本類である。「画範」が絵手本、粉本類で直接の教材となる資料であるが立体物は含まれていない。「書籍」は教科書、参考書であり今日の学校でも一般的な学校図書である。「器械」は備品類一般で書箱や机などのほか、直入が寄付した文房具茶器類もここに含まれていたと思われる。「褒状」は画学校が関係した各種博覧会からの賞状、賞牌である。この中で直接教育と関わったのは「画範」と「書籍」である。京都府画学校は、四条派、円山派、文人画から西洋画に至るまで幅広い絵画教育を行った。京都府画学校の校有品を見ると、今日の学校同様に様々な資料が教育を支えていたことがわかる。校有品記録と現在京都市立芸術大学に保存されているものと比較するとき、失われたものは多いが、未だ遺されているものの数も決して少なくない(注11)。教則に示された内容は時として現実を反映しないことがあり、これら遺された資料は、その間を埋めて教育の実態を伝えるものといえる。直接の教材である絵手本については、東宗、南宗、北宗ともかなりの数を揃えている。校則には教育に用いる絵手本を教員自らが作成することが定められており、実際に遺された絵手本も教員の手になると考えてよいものが大半である。教員の交代がなかった東宗では絵手本の構成も一貫しており、初級者から上級者に至る資料が遺されている。また教員が雲樵から巨勢小石へと変わった南宗では、教員が自身で絵手本を制作するという規則に従って、ほぼ同じ絵手本を再作成している特徴がある。一方、楳嶺から鈴木松年へと教員が交代した北宗においては、教則と絵手本との関係が、現存資料から明瞭ではないものの、一旦作成された教則に対して、教員が交代してもなおその方針をみだりに変更していないところから、学校としての組織的な統制は成立していたことがわかる。ただ、教則に詳細に設定された教授内容と、絵手本の構成に食い違いを見せる場合があり、教育現場では進度を調整するような運用を行うことはあったと思われる。
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