― 136 ―【おわりに】西宗については、いわゆる絵手本はなじまないようにも思われるが、当時の西洋画教育は、工部美術学校で行われていたような、模写を基礎とする比較的古い方法に従っていたため、手本画は重要な教材となった。そのため、西洋画向けの絵手本も少なからず整えられたことは注目してよい。西宗で使用された絵手本は、他の三宗においては、粉本と呼ばれる一群に対応する。近世の画系において、流派の作画様式を継承するために粉本は大きな意味を持ったが、画学校においても、絵手本に並ぶ参考資料として粉本は重視された。粉本には古画や現代作家の模写に加えて、参考とすべき写生類をも含んでいる。教育用の資料全体を見れば、その比率から絵手本が相当に重視されたことが確認できる。それは教則の中で、運筆と臨模が重視されていることと対応している。そして東宗、北宗に比べて南宗には、多くの書籍を教育の参考とする特徴が見られ、画譜、画論、詩文、書法の教授に書籍が利用されたと考えられる。これは書籍の中に東宗や北宗の教則との関係をうかがわせる資料がほとんど見られないことと対照的である。また、模写教育が行われた西宗の授業では、特に初学者を対象とする教材として書籍が利用されたことが推測される。京都府画学校が開校に至る経緯や、そこで展開された教育について検討するとき、多くの試行錯誤の痕跡を見ることができる。その中で、京都府画学校が四宗画学校として広く諸絵画の良所を求めようとした構想は画期的といってよい。整備された教則に従う諸派共同教授の夢は、各の持つ長所を習得して、優れた絵画芸術を生み出す理想を求めるものであった。ただ共同教授の機運は成らず、近世の画塾教育を継承する教育内容は、10年に満たない短い期間の中で明確な成果を見せるには至らなかった。その中で写生教育を中核のひとつに位置づけたことは、時代の動きを明確に捉えており、後に隆盛を迎える近代京都画壇に内在した創作精神の涵養に貢献したと思われる。また、画学校出仕の制度により京都在住の画家たちに共通の価値観と協力関係を形成する基盤を作り出したこともその存在意義を示すものといえる。一方、日本絵画の教授を行う傍らで行われた西洋絵画の教育は、決して進歩的な内容ではなかったが、師範学校教員などの人材を送り出して教育的貢献を果たしており、評価できる(注12)。京都市移管後まもない明治23年(1890)に西洋画専攻が廃止に至る理由として、明治22年(1889)開校した東京美術学校に西洋画科が設置されなかった影響の他、その教育成果を正当に理解されない不幸があった。
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