7)大内菱(家紋)の装飾 大内氏の家紋は一般的に『大内菱』と称され、大内氏の文様としてよく知られている。その紋章を精査すると、年代的な形状の差異が認められ、これ等の形状の変化を解明することにより、相当程度の建築建立年代を考える上で有効な判定資料となろう。大内菱の発生は当初、花菱文と推定され、別名、唐花菱紋といわれ、割菱の四隅の形を美化したもの〔図12〕であって、これは唐花〔図13〕と同様で実在する花ではなく、中国から渡来した想像的に描かれた文様である。家紋は元来、物の形を図案化し、家の印(しるし)として用いられたのが起こりと伝えられている。筆者はこれ等の観点にたって、中世に制作されたと推定される大内菱をほぼ悉皆調査の形で実施し、検討を加えた。その結果、大内菱といわれる紋章は大内時代にあっても厳格に決まっておらず、細部に至っては小異あることが判明した。家紋の大小の違いも許されないと考えられるようになったのは、戦国時代を経て江戸時代になってからである。江戸時代になると三百諸候をはじめ家毎に明確な家紋を決めた。例えば葵の紋では徳川将軍家と御三家のそれは総て違いがあった。このように江戸時代の家紋は家毎に明確に定まっており、その紋は縦横の比、線の幅も決まっていた。しかし、近世以前の紋は現在の家紋として考えられる性格のものではなかったらしい。大内氏の場合(〔図14〕参照)、旧興隆寺楼門古板、住吉神社本殿蟇股内部装飾、福生寺本堂内厨子(室町中期、広島)、宇佐八幡宮所蔵神輿、瑠璃光寺五重塔、正八幡宮楼門上層脇間飾りの如く、早くから唐花菱を好んで用いていたが、15世紀末〜16世紀中期になると、紋の名称は「からひし」でありながら、唐花菱から派生したと考えられる曲線のない花菱紋を使用するようになった。この曲線から直線への移行は、1つには金襴に大内菱を織ったために由来する形〔図15〕として考えられ、多くが菱の中に斜十字を入れ、4つの小菱に分け、外縁となる辺に各々2つの凹部を入れる形式で従来、室町前・中期と推定された古熊神社や八坂神社の蟇股内の大内菱がこれに相当し、このことからして室町後期に制作されたと比定される。また、この地方の細部意匠や美術の変遷を考える上で、非常に注目に値する史料である。を丁度逆置させた形状となる。例は今八幡宮本殿(身舎背面側組物部分のみ)、月輪寺厨子、不動院金堂である。この内、絵様について考察すると、月輪寺、今八幡宮のそれは、渦文様のみであるが、不動院金堂は渦文様に若葉を加え、非常に均整のとれた文様を呈し美術的にも華やかであり、白眉である。例は僅かであるが、年代的には室町後期である。なお、山口以外には明王院本堂(1321)があり、瀬戸内海沿岸地域では最古例となる(〔図11〕参照)。― 5 ―
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