鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
178/620

― 167 ―鷗斎筆本(京都国立博物館)〔図9〕、狩野派として、元信(1476−1559)筆本(石川県立美術館、以下、元信筆本。〔図10〕他二点の元信画が出光美術館、真珠庵通僊院に所蔵される)、興以(1566−1636)筆本(石川県立美術館)、尚信(1607−50)筆本(静岡県立美術館)、雲谷派として、等顔(1547−1618)筆本(萩市・徳隣寺)、等的(?−1664)筆本(個人蔵)などが知られ、これらの作品は中国の欠損時期である明代中・後期に相当するものでもある。本稿は、これら15世紀末から17世紀前半の西湖全景図を対象とし、中国側の作品も加えながら、日本の初期西湖図形成について考察を試みるものである。二 西湖図の基本的構成法日本の西湖図の画面構成を見ると、西湖東側の杭州市街から西方の西湖が俯瞰され、画面下部に市街の城壁、中程湖上右手に白堤と孤山が画かれ、その後方に蘇堤が水平に伸び、画面右に保叔塔を山頂に置く宝石山、左に雷峰塔を麓に置く南屏山、上部に北・南高峯の切り立った高山が西湖の三面を取り囲む構図を基本としていることが先行研究によって明らかにされている(注3)。この西湖図の構成法とその淵源について考えることから始めたい。まず、画面全体を統一して捉える基本視点を確認すると、鷗斎筆本、元信筆本の視点の位置は画面上から約五分の一にあり、比較的高い視点を有する。同時代の山水図にはこうした高い視点をもつものは少ないが、実在の景勝地に基づいて画かれた雪舟「天橋立図」(京都国立博物館、文明15年=1483頃)には、同様の視点の高さが見られ(注4)、小川裕充氏により、「天橋立図」は、李嵩筆本と同様に、実際には採り得ない鳥瞰的な高い視点から見る観念的実景図であり、現地での写生そのものではないことが指摘されている(注5)。李嵩筆本を見ると、基本視点の位置が画面上から約六分の一に、また、李嵩筆本と制作年代が近い『咸淳臨安志』所収「西湖図」(咸淳4年=1268刊本、以下咸淳臨安志本)〔図2〕の視点においては、画面上から約十四分の一に設定され、両本ともに上空から見たような高い視点を有することがわかる。そして、日中の西湖図のほとんどの作例が、西湖東岸の市街から西方の湖を見て景物を配する構成を採るが(注6)、この基本構図は、視点の高さと同様に、李嵩筆本や咸淳臨安志本にも見られるものであり、その構成法の淵源が中国南宋時代にまで遡る可能性が高いと考えられる。では、何故、西湖の西・北・南岸から見るのではなく、東、すなわち、市街からの視点を採る構成法が定型化したのだろうか。大室幹雄氏は、西湖の見かたの定型化が、

元のページ  ../index.html#178

このブックを見る