鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 168 ―白居易や蘇軾の詩文によって始められ、そこには「城市(都市)」(人工)と「江湖」(自然)の照応・対立が伝統として根ざしているとする見解を提示されている(注7)。そして、杭州の都市が南宋時代、安在所ではあったが、宮城を有する国都となったことを考え合わせると、杭州が一地方都市であるばかりでなく南宋の都となったことが西湖東岸の市街を中心として景物を捉える基本構図の形成に寄与した可能性が想定される。咸淳臨安志本の近景に「大内鳳凰山」として市街東南に位置する宮城が大きく画かれていることもこれを裏付けるであろう。三 城壁の形態次に細部の図様について検討を行いたい。伝・雪舟筆本、如寄筆本、鷗斎筆本、元信筆本などには、画面左西湖南岸に位置する浄慈寺後方の山腹に半円筒状の城壁が画かれる。また、画面下西湖東岸市街の城壁は、蘇堤と平行するように直線状に伸び、形に後退しながら山の背後に消えて行く〔図4〕。この二つの図様は江左方で戸初期の狩野派や雲谷派の作例にも見られ、図様の継承が想定される。しかし、このような表現は中国側の遺品には見られない。では、これらの城壁の形態は何を意味するものなのか。荏開津通彦氏は、日本の西湖図に誇張されて画かれる城壁や六橋などの石造建築物には、中国の城壁都市・都市文化のイメージが重ね合わされていることを指摘されている(注8)。そこで、杭州城郭変遷の歴史との関わりから、図様の意味するところを考えたい。まず、杭州城区と西湖の地理上の歴史を概観することから始めたい(注9)。古代、西湖は海湾で、現在の杭州市街区は陸地となっていなかった。後漢(25−220)の頃、海湾が海と隔絶して内湖、すなわち、西湖となり、東の杭州城区が陸となる。現在の杭州城壁の基礎が最初に築かれたのは、隋代で、開皇11年(591)、城壁が築かれ、その城周は三十六里九十歩であり、比較的狭小な領域であった。五代・呉越時代に杭州は国都となり、銭鏐(852−932)により、大順元年(890)、「夾城」が、ついで景福2年(893)、「羅城」が修築され、城周は凡七十里、その城域は大幅に拡大された〔図7〕。『咸淳臨安志』(宋元方志叢刊本)巻十八「疆域三・城郭」には、「據乾道志、銭氏旧門、南曰龍山、東曰竹車・南土・北土・保徳、北曰北関、(中略)西曰涵水西関〔雷峯塔下〕。城中又有門、曰朝天門、曰炭橋新門、曰鹽橋門。今並廃。土人、猶以門称。惟朝天両土台尚存。」(傍線は筆者)とあり、都合十の城門があったことが知られる。その中で、雷峯塔下の「涵水西関門」は注目され、賀業鉅氏の「杭州城壁変遷推定図」〔図7〕によれば、呉越の南の「夾城」は雷峯塔・浄慈寺後方、南屏山北背から赤山

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