鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
180/620

北宋時代に縮小された杭州城郭であるが、南宋に入り、紹興12年(1142)の宋金和議以降、皇城と外城壁の建設が本格化した。『宋会要輯稿』(北平図書館影印本)「方域二之二十・紹興28年(1158)6月3日」条には、皇城の東南一帯に外城壁が築かれ、新たに嘉会門と呼ばれる南門が造られたことが記される。斯波義信氏の推定によれば、その城周は大凡五十里前後で、拡張部分は、候潮門から今の南星橋辺をへて左折し、梵天寺を包み、包家山・桃花関・冷水谷を外にみて、烏亀山を包み、籍田先農壇辺で西北へ転じ、慈雲嶺から鳳凰山西北背を萬松嶺へと進み、銭湖門へと続く部分とされる。そして、元末の至正19年(1359)、再び築城が行われ、東は拡張し、南端は候潮門・和寧門に縮小、すなわち、南宋の宮城・鳳凰山・萬松嶺の領域は城外に出ることとなった。明代においても、この城域が踏襲され、元末に廃された南部分の内、雲居山西側の城壁部分に位置する銭湖門も廃された〔図8〕。以上の杭州城壁の変遷史をうけて、南宋の城壁を見ると、その城壁は呉越のそれを基礎として形成され、南東部の嘉会門から鳳凰山全体を包む南部の城壁を新たに修築したことがわかる。元末以降、この部分の城壁が廃されたことを鑑みると、清波門・銭湖門から、萬松嶺・鳳凰山の西背へと続く外城壁は、まさに南宋独自の城壁ということができる。李嵩筆本の手前右隅には、ごく僅かであるが、この南宋時代にしか見ることができない城壁が画かれている。そして、西湖図前景左に画かれた城壁の形も、清波門から銭湖門にかけて幾分西湖側の西に張り出しながら萬松嶺や鳳凰山の背後に隠れて行く南宋の外城壁の形態に通ずると考えられる。さらに、銭湖門内の様子に目を向けると、南宋・臨安城の防衛にあたる禁軍の一部が、銭湖門内、萬松嶺・雲居山の丘陵部から宮城周囲に駐屯し、その軍寨・城寨が集中していた(注10)。梅原郁氏の「南宋臨安官署・軍営・官宅図」〔図8〕を見ると、これらの軍寨とともに、清波門と銭湖門の中程から雲居山の西南部をへて、宮城壁西北部までめぐらされる内城壁が想定されている。清波門を基点としてこの内・外城壁が南へY字形に分かれる様は、鷗斎筆本、元信筆本にも見られる。― 169 ―埠に向かって伸びていた。この「西関門」付近で南屏山に沿って幾分湾曲する城壁の地理的位置とその形態は、雷峰塔・浄慈寺後方の山腹に画かれた城壁のそれにほぼ一致する。北宋初に、この呉越の「夾城」・「羅城」は廃され、城壁全体も縮小したとされる。但し、南宋時代においても旧跡としてその名を留めていたことは、上述の『咸淳臨安志』「疆域三・城郭」に「今並廃。土人、猶以門称。」とあり、同志「西湖図」中にも浄慈寺の傍らに「古西関門」と明記されていることから知られる。以上、南屏山中腹の半円筒状の城壁及び市街左の形の城壁部分は、それぞれ、

元のページ  ../index.html#180

このブックを見る