鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 170 ―呉越時代の西関門付近の「夾城」、銭湖門辺りの南宋城壁を表現したものと解したい。先述したように、中国側の遺品からこのような図様を直接偲ぶことはできない。ただ、宮崎法子氏が指摘されるように、明代作とされる葉肖巌「西湖十景図冊」は、その南宋院体画風の表現によって、南宋の都ぶりを象徴することを意図とするような作品であり(注11)、明代において、既に存在しない呉越や南宋の城壁が古都を象徴するものとして画かれていた可能性が考えられる。図冊の内の「柳浪聞鶯図」〔図3〕に、日本の西湖図の城壁に通ずるような直線的で鉤の手形の城壁が画かれていることも想起される。四 宝石山及び孤山の素材構成前章の城壁の形態以外で、日本の初期西湖図は、画面右の宝石山周辺及び西湖上の孤山においても、図様上の共通性を有することが確認される。すなわち、宝石山の懸崖は、前景から中景にかけて垂直にそそり立ち、その山頂には保叔塔が立ち、麓には山頂へと通ずる坂道が左下から右上へと直線的に伸びる。崖下湖面には太鼓橋が架けられる。また、鷗斎筆本や元信筆本などの孤山を見ると、孤山全体を俯瞰視して立体的に捉え、孤山と北岸を繋ぐ手前の白堤と後方の西林橋の堤が、孤山とともにU字形をつくる。そこで、この宝石山周辺と孤山の構成上の出所をそれぞれ、中国作例の中から求めてゆきたい。宝石山周辺については、実際の地理的特徴を考慮する必要がある。西湖北岸を囲む山並みは北山と呼ばれ、西から栖霞嶺、葛嶺山、宝石山が位置する。標高は、葛嶺山が約165余m、宝石山が100m以下と比較的低いが、東の断橋から眺めると巨大な城壁のごとくその勾配はきつい(注12)。その様は、李嵩筆本にも表現され、また、保叔塔へ続く急な山道も誇張されて画かれている。一方、絵画空間としての影響関係において、山下裕二氏は、雪舟「四季山水図巻」(毛利博物館)と南宋の夏珪「溪山清遠図巻」(台北・国立故宮博物院)に見られる懸崖・山頂の家屋・麓の坂道という素材構成の共通性を(注13)、また、畑靖紀氏は、雪舟「四季山水図巻」と伝・雪舟筆本における懸崖・塔・麓の坂道・太鼓橋という素材構成の近似性を指摘されている(注14)。両氏の見解を合わせると、夏珪「溪山清遠図巻」と伝・雪舟筆本との間にも、同様に構成上の共通性を見出すことが可能となる。しかし、夏珪「溪山清遠図巻」には、太鼓橋という素材が欠けている。そして、夏珪の作品以上に伝・雪舟筆本に近い構成を持つ作品として、雪舟が学んだとされ、時代的にも雪舟に近い戴進(1388−1462)の「浙江名勝図巻」(北京・故宮博物院)〔図6〕を挙げることができる。本図

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