鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 171 ―は浙江地方の景勝地に基づきつつも、実景に大きな再構成を加えたもので、その巻頭には西湖全景が画かれる(注15)。宝石山の懸崖は、画面右前景から中景を占め、その山頂には保叔塔が立ち、麓には保叔塔へと通ずる急な山道が左下から右上へと続く。こうした様が日本の西湖図と共通する。そして、宝石山から幾分離れた位置になるが、崖下奥の湖岸から堤が伸び、その中程に架けられた太鼓橋の配置も似る。次に、孤山について見ると、伝・雪舟筆本、如寄筆本、秋月筆本のそれは、孤山全体を水平視して平面的に捉え、孤山と岸を繋ぐ堤は一本或いは画かれていない。このような図様は戴進「浙江名勝図巻」の孤山にも同様に見られる。一方、上述した特徴をもつ鷗斎筆本や元信筆本、以降の作例の孤山に近い図様を、明の嘉靖26年(1547)に刊行された田汝成『西湖遊覧志』所載の「今朝西湖図」〔図11〕に見出すことができる(注16)。両者は、孤山を立体的に捉える俯瞰の視点、平行する二本の堤と孤山がつくるU字形の形態が共通する。このU字形の形態は、万暦戊申(万暦13年=1608)の款を有する周龍「西湖図巻」(浙江省博物館)にも確認できる。さらに孤山の細部に注目すると、中央の台形の山の形態、その山の麓の右北側に小道がめぐる様が共通し、白壁のアーチをもつ「望湖亭」が孤山と白堤の付け根付近に建つが、これも鷗斎筆本や元信筆本にある白壁のアーチ状の建物と大凡の位置、形態を共にする。このように日本の西湖図と戴進「浙江名勝図巻」、『西湖遊覧志』「今朝西湖図」の間には、宝石山周辺部や孤山部分における素材構成の共通性が見られ、日本における西湖図の宝石山周辺・孤山の図様は、初め、戴進作品に見られるようなそれらに基づき、その後、西湖遊覧志本西湖図の孤山部分を新たに採り入れ形成されたことが想定される。五 結語 以上、日本の初期西湖図の成立について、構成面からの考察を行った。日本の西湖図は、李嵩筆本のような南宋の西湖図を典型としてその基本的構図を踏襲していると考えられる。そして、明代には既にない呉越・南宋の城壁に古都のイメージを重ね得る作品の存在を予想できることを示し、これまでほとんど言及のされることのなかった図様上の出所について、宝石山周辺及び孤山の素材構成が同時代の明代作品から摂取された可能性を指摘した。このように、我が国の初期西湖図は、さまざまな西湖の「かたち」を中国絵画から漸次採り入れて再構成し形成されていったと捉えることが許されよう。最後に、日本へ西湖図の図様がもたらされた社会的背景について私見を述べ、本稿を閉じたい。雪舟の中国渡航の一つ前の遣明使・東洋允澎(?−1454)の入明記録『允

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