注⑴ 十景図については、宮崎法子「西湖をめぐる絵画─南宋絵画史初探─」『中国近世の都市と文化』⑵ 「西湖図 三竺霊区曾所鎮。中興皇祚藉之来。家家絃管日還夜。處處楼台月又梅。僧坐白雲鐘⑷ 十六世紀半頃の作とされる「堅田図旧襖絵」(静嘉堂文庫美術館)、「天橋立・富士三保松原図⑸ 小川裕充「37 李嵩 西湖図巻」、「68 雪舟 天橋立図」『臥遊 中国山水画─その世界』中― 172 ―⑶ 尾崎真人「雲谷派の「西湖図」について(第38回全国大会研究発表要旨)」『美術史』119号、美術史学会、1986年、74頁。辻惟雄「伝狩野元信筆 西湖図屏風」『国華』1179号、国華社、1994年、22頁。⑹ 但し、西岸から画く作例として明代の台北・王藹雲コレクション本、南岸から画くものに万暦7年(1579)刊『杭州府志』「西湖図」、北岸から画くものに雍正13年(1735)刊『西湖志』「西湖全図」、周尚文(?−1762−?)「西湖全覧図通景屏」(天津博物館)、日本画には池大雅(1723−1776)「西湖風景図」(個人蔵)が知られる。⑺ 大室幹雄「第六章 西湖の誕生と成長」、「第七章 白楽天と蘇東坡─西湖「酷愛」」『西湖案内』⑻ 荏開津通彦「雪舟の中国真景画巻群について」『天開図画』1、山口県立美術館、1997年、35頁。⑼ 以下、杭州城郭の変遷については、魏嵩山「杭州城市的興起及其城区的発展」『歴史地理』創刊号、上海人民出版社、1981年、160−168頁、斯波義信「宋都杭州の商業核」『中国近世の都市と文化』京都大学人文科学研究所、1984年、40−45頁、賀業鉅「南宋臨安城市規画研究」『中国澎入唐記』(続史籍集覧本)享徳2年(1453)5月21日条には、遣明使一行が杭州西湖に行く前に、寧波の勤政堂で幅五丈もある巨大な西湖図を見せられたことが記され(注17)、同様に戴進作品との接触も考えられる。また、『西湖遊覧志』勝景絵地図からの影響においては、天文8年(1539)と同書刊行年でもある天文16年(=嘉靖26年・1547)の二度、遣明使として渡航した天竜寺妙智院住持・策彦周良(1501−79)の入明日記『初渡集』・『再渡集』(牧田諦亮校訂『策彦入明記の研究』所収)の記録が注目される。両日記によれば、策彦は『九華山志』などの書籍を購入したり或いは贈られている。策彦が将来した杭州北京間の運河交通の案内書ともいうべき『図相南北両京路程』(妙智院)も現存する。また、『再渡集』嘉靖27年(1548)9月20日には、中国文人・豊坊(?−1523−62−?)に狩野元信筆の扇面画を土産として持参したことが記され、策彦と元信との繋がりが想像される(注18)。以上の二つの入明記録からは、入明僧が造形作品を直接目にする機会を得たことや、版本書籍を持ち帰ったことが知られ、西湖図受容の背景には、入明僧が深く関わったことが予想される。さらなる考究に努めたい。京都大学人文科学研究所、1984年、203−204頁参照。出寺。山臨湖水鏡當台。平生清賞南遊夢。真箇眼従毫末開」屏風」(個人蔵)などの名所図も、高い視点を有する。央公論美術出版、2008年、226、257頁。岩波書店、1985年、94−142頁。
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