鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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1.仏陀波利訳『仏頂尊勝陀羅尼経』「経序」の成立について仏陀波利訳『仏頂尊勝陀羅尼経』は、その前に付された「仏頂尊勝陀羅尼経序」(『大正蔵』19、349頁b〜c。以下、「経序」と略称。)によると仏陀波利が梵本を携え長安に到った永淳2年(683)に漢訳されたことになっているが、同本異訳とされる他の仏頂尊勝陀羅尼経の翻訳年とは矛盾する点があり、断定はできない(注4)。「経序」自体も■者や■述年を明記していないが(注5)、文末近くに、永昌元年(689)8月、定覚寺主の志静が、西明寺僧順貞(仏陀波利と共に梵本を漢訳した僧)の消息を聞いたという記述があり、これが「経序」中もっとも新しい年月であることから、― 177 ―⑰ 敦煌仏頂尊勝陀羅尼経変相図の成立に関する研究研 究 者:早稲田大学 非常勤講師  下 野 玲 子はじめに中国の敦煌莫高窟には仏頂尊勝陀羅尼経の内容を描いた変相図が7点現存している(注1)。そのうち最古の作例が第217窟南壁の図で〔図1〕、その制作年代は8世紀初頭とみなされてきた。『仏頂尊勝陀羅尼経』は7世紀後半から8世紀初頭にかけて5本の同本異訳があるが(注2)、第217窟壁画には仏陀波利訳(『大正蔵』19、No.967)に付された「経序」の内容、すなわち“婆羅門僧”仏陀波利が文殊菩■を礼拝するために中国の五台山を訪ね、文殊の化身と思しき老人から当経の将来を託されるという取経伝説が描かれていることから、仏陀波利訳本に拠って絵画化されたといえよう(注3)。現在、仏頂尊勝陀羅尼経変の作例は莫高窟以外に確認できないが、当経を刻んだ石造の経幢は中国各地に唐から宋、西夏、金、元、明に至るまで、おびただしい数の作例が残されており、この経典は広く持続的な勢力をもつ信仰であったこと、また五台山文殊という中国仏教の一大信仰の隆盛にともなって制作されたと考えられることなど、唐代の仏教文化に関する多くの問題をはらんでいよう。本研究では当初、仏頂尊勝陀羅尼経「経序」の成立年代の考察と、莫高窟第217窟制作年代の再検討によって、中原で発生した仏教文化が一地方である敦煌へ波及するのにどの程度の時間を要したのかを考えることが目的であった。しかし、第217窟供養者像について新知見を得たことにより、供養者像題記を根拠として本窟の造営年代を検討することが困難になったため、本稿では仏頂尊勝陀羅尼経信仰の敦煌へ伝播の年代についての結論を出すことには拘らず、「経序」に関する考察と、供養者像についての新知見を中心に報告することとしたい。

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