鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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2.唐代前期の石刻資料にみえる「経序」清末の学者、葉昌熾(1849〜1917)は経幢の拓本を600通余も収集したことが知られている。その著『語石』は尊勝陀羅尼経幢について、「天宝以前は皆棋子方格、雕写精厳、兼せて経と序と呪とを刻し、序を刻せざるものは十の三に過ぎず」と述べており(注6)、仏陀波利訳本の「経序」が刻された尊勝陀羅尼経幢は天宝(742〜756)以前、すなわち8世紀前半までの経幢の7割を占めているという。葉昌熾が収集した天宝以前の経幢拓本の実数は明らかでないが、相当数集めた上での発言であろう。しかし、近代までの金石文献および中国各地の報告書などで公開されている経幢の情報を収集してみると、「経序」の有無について言及しないことが多いため、これまでに確認できた範囲では、開元年間(713〜741)までの経幢を含む石刻資料のうち、「経序」が刻まれているものがそれほど多いという結果にはならなかった。― 178 ―少なくとも永昌元年(689)8月を「経序」成立の上限とすることができる。つづいて、「経序」が流布し始める年代について、経幢等の石刻資料をもとに確認してみたい。当該経典の「経序」をもつ石刻資料としては、現在のところ、景龍年間(707〜711)と推定される獲鹿(現河北省鹿泉市)本願寺経幢が最も早いと考えられる。清代の沈濤■『常山貞石志』巻7によれば、この経幢には紀年がないが、「佛頂尊勝陀羅尼経。経文及び序は録さず」との記述から「経序」は刻されていたと判断できる。沈濤は、同じ寺内に立つ「應天神龍皇帝 順天翊聖皇后」の題字がある別の経幢が「経主」等供養者題記のみを刻すこと、さらに両幢の字体が類似することから、両者は対で同時期に建てられたものとみなし、上記の題字が中宗と皇后韋氏を指すことから景龍年間の制作と考察している(注7)。したがって、一応、景龍年間までには「経序」がある程度流通していたと考えておきたい。紀年のある確実な資料となると、開元12年(724)の安衆寺僧智空尊勝幢まで下る。この経幢も『常山貞石志』巻8に掲載され、元氏開化寺(河北省元氏県)にあるという(注8)。「経序」は永昌元年(689)8月以降、おそらく武則天時代(690〜704)のうちには成立し、仏陀波利訳『仏頂尊勝陀羅尼経』を世に広める一因となったと考えられるが、この時期は経幢などの石刻資料の現存作例が少なく、金石文献のみでは7世紀末に■る確実な作例を挙げることは叶わなかった。「経序」が流布し始めた時期を具体的に特定するのは難しいが、景龍年間と推定される河北省本願寺経幢にはすでに刻さ

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