4.供養者像題記と窟主上述した供養者像の題記のうち、男性第9身「嗣瓊」とその後方の題記「嗣玉」が陰氏一族の人名として注目されてきた。賀世哲氏がこの二者を陰氏であり、第217窟の建造を神龍年間(705〜707)以前と考証されて以来、本窟は陰氏によって8世紀初頭頃に造営されたことがほぼ定説となっている(注11)。その論拠を簡略に述べると以下のようである。ペリオ本敦煌文書P.2625、いわゆる『敦煌名族志』残巻に記される陰家の祖、陰稠の孫の世代は「嗣業」「嗣監」「嗣■」「嗣瑗」「嗣王」など「嗣」字を共通にもっており、「嗣王」はおそらく「嗣玉」の誤写で第217窟供養者中の「嗣玉」と同一人物と考えられる。また、題記と『敦煌名族志』記載の陰嗣玉の官名を比較すると題記の相当官位の方が高いことから、この文書の成立年代は題記より早い。文書の成立は他の敦煌文書との比較検討によって708年以降733年以前と推定されることから(注12)、本窟は神龍年間(705〜707)以前に建造されたと結論づけたのである。さらに秋山光和氏は、題記の「嗣瓊」と読める文字は文書中の「嗣■」あるいは「嗣― 181 ―白い顔料が残り、下ぶくれの豊頬であることがわかる。榜題は判読不能。⑸ 第5身:縦長の髻を後頭部から斜め後ろに立ち上げ、後方を振り返る女性立像。右肘に帔巾の描線が見え、上衣・裳ともに現状では白色に見える。 以上の5身は西壁龕下にある。⑹ 第6身:円形に膨らんだ髻を結い上げ、後方を振り返る女性立像。白色の上衣に淡緑色の裳を着ける。榜題は像前方の西壁南端にあり、『題記』によれば「□(許)新婦令狐氏」(『ペリオ』も同様)で、第一字以外は明瞭に残る。⑺ 第7身:左右の裾が張り出した山型の髻を結い上げ、後方を振り返る女性立像。灰紫色の上衣を着け、裳は白色で輪郭はほとんど見えない。榜題は現状では判読不能だが、『題記』によれば「□(袁)新婦令狐氏」である。⑻ 第8身:後頭部に細長い髻を結い上げ、白色の上衣と淡緑色の裳を着けた女性立像〔図4〕。榜題は、『題記』によれば「□(顔)新婦張氏」で、第一字以外は明瞭に確認できる。⑼ 第9身:淡緑色の上衣に白色の裳を着けた女性立像。榜題は判読不能。⑽ 榜題があるが、人物画像は確認できない。榜題に文字は見えない。以上⑹〜⑼の5身は土壇の北面にある。つづく土壇の東面には、先頭にこれまでの女性供養者像よりやや小さい女性像が1体確認でき、最後尾には轅をもつ車が斜め前方から俯瞰した視点で描かれている。車を牽く牛などの獣は見えない。
元のページ ../index.html#192