鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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3身の間、第3・4身の間、第4・5身の間、第7・8身の間、第9身の後方スペース、以上の箇所には供養者像の肩の高さから裾に至る位置にかけて特に多く、女性像の第1・2身の間には頭の高さから裳裾辺まで、南端の車部分にも全体的にまとまって散在している。また、女性像第1・2身の間には、焦げ茶色の部分の左隣に緑色の下層が覗いている部分もある。さらに、女性像第9身は裳の中央部分の表層が大きく剥がれ、そこに裳と袖の袂と思われる描線と、鮮明な黄色の彩色が見え〔図4の網掛け部分〕、下層に女性供養者が描かれていたことが推定できる。― 183 ―したがって、焦げ茶色の部分も人物像が描かれていた可能性が高く、現在表層に見られる供養者像が描かれる前に、一連の供養者像があったと想定できよう。そこで、表層の供養者像が描かれた年代が問題となる。男性供養者は頭部が残存するものが少なく、服装や体つきから様式が判断しにくいが、女性像は髪型と服装の輪郭から年代をある程度把握することができると考えられる。まず、同じ窟内の俗人女性像の髪型をみてみよう。西壁龕頂金剛経変(注15)〔図7〕、および南壁仏頂尊勝陀羅尼経変では〔図8〕、顔の左右から後頭部に膨らみをもたせ、頭頂にごく小さな髷を結う形で、盛唐の開元期を代表する第130窟南壁の女性供養者像〔図9〕や盛唐期第45窟南壁観音経変の女性像〔図10〕など盛唐期に多い髪型に近い。しかし腰は細く、胴回りが豊かな第130窟像などよりも細身の初唐期の影響が残る段階のものと想定される。また、東壁観音経変の俗人女性像〔図11〕は全体に細長く、後頭部の生え際にやや膨らみをもたせる髪型の他は初唐期の作例に近いといえる。これらに対し、西壁龕下女性供養者は全体的に胴回りが豊かで顔も豊頬であり、初唐期の名残は完全に払拭されているとみてよかろう。髪型は、第130窟像のような低い髻と顔の左右や後頭下部に大きく膨らませた部分を作ったものは見られない。東壁女性像の髪型も左右に膨らみを作らないが、体つきが細い点が西壁像とは異なる。したがって、西壁女性供養者像は窟内の他の位置の俗人女性像とは類似しておらず、少なくともそれぞれの粉本の成立期とは年代が異なり、様式的にやや遅れるのではないかと思われる。第6身や第7身の膨らんだ髻と近いのは、盛唐期の第45窟北壁〔図12〕や中唐期でも盛唐期に近いといわれる楡林窟第25窟北壁の女性像〔図13〕に見られるため、西壁女性像も盛唐期の範疇には入るかもしれない。しかしながら、彩色に水色に近い淡緑色が多用されていることは、盛唐末期と考えられている第148窟や第31窟等に共通する要素といえ、8世紀初頭、すなわち初唐から盛唐への過渡期、あるいは盛唐初期に位置づけることは困難であろう。

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