鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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注⑴ 第217窟南壁、第103窟南壁、第23窟伏斗形窟頂東面、第31窟伏斗形窟頂東面および南面・北面の東側、第156窟前室頂南側、第55窟北壁西側、第454窟北壁西側。前4作品は一般に盛唐、第156窟前室頂南側は晩唐、残りの2作品は宋代の制作とされている。なお、第156窟は、王恵民氏の教示によれば2010年8月の国際学会における共同考察中にフランス極東学院の郭麗英氏・敦煌研究院の殷光明氏らが発見したと研究院内の報告文に発表された。同文は敦煌研究院のインターネット・ホームページ中にも公開された。⑵ 杜行顗訳『仏頂尊勝陀羅尼経』:儀鳳元年(679)漢訳(『大正蔵』19、no.968)、地婆訶羅訳『仏頂最勝陀羅尼経』:永淳元年(682)訳(『大正蔵』19、no.969)、仏陀波利訳『仏頂尊勝陀羅尼経』(『大正蔵』19、no.967)、地婆訶羅訳『最勝仏頂陀羅尼浄除業障呪経』:垂拱3年(687)以前(『大正蔵』19、no.970)、義浄訳『仏説仏頂尊勝陀羅尼経』:景龍4年(710)訳(『大正蔵』19、no.971)⑶ 拙稿「敦煌莫高窟第二一七窟南壁の新解釈」(『美術史』157、2004年10月、美術史学会、96〜⑷ 天冊万歳元年(695)、明佺■『大周刊定衆経目録』巻4では永淳2年(683)訳とするが、開元18年(730)完成の智昇■『開元釈教録』巻9では、仏陀波利訳の訳年月を「経序」によって定めることはできないという。地婆訶羅訳『仏頂最勝陀羅尼経』(『大正蔵』19、355頁a〜357頁a)に付された彦悰■経序によると、儀鳳4年(679)に杜行顗と寧遠将軍度婆等が第一訳を出し、永淳元年(682)に地婆訶羅が第二訳を出したというが、これは仏陀波利訳本の「経序」が永淳2年にもたらされた梵本が最初杜行顗と地婆訶羅等によって訳されたとする記述と矛盾する。この翻訳年次の問題についてはいくつかの先行研究があるが、ここでは経序の成立のみを問題とするため割愛する。― 184 ―⑸ この序を永昌元年成立、また志静を筆者として扱う研究者もいるが、経序題名の直後あるいは文末に年月・■者名を記しているわけではないため、成立年と■者を限定しない方がよいと考える。干潟龍祥氏も志静を筆者としない。干潟龍祥「仏頂尊勝陀羅尼経諸伝の研究」(『密教研究』68、第一書房、1939年)参照。⑹ 『語石』巻4「経幢八則」。訓読は藤原楚水訳注『訳注語石』(石刻書道考古大系上巻、省心書房、まとめにかえて莫高窟第217窟西壁の現在の供養者像は最初の供養者像の上に描き直されたものと考えられる。その時期についてはさらに供養者図像の多くの作例と比較検討する必要があろう。しかし、少なくとも南壁の仏頂尊勝陀羅尼経変の粉本成立よりは遅れ、あるいは表層の供養者像は最初の窟主ではないとも考えられる。供養者像題記をもとに構築された本窟の造窟年代と窟主については、今後さらに慎重に検討する必要があるだろう。いずれにせよ、第217窟に描かれた仏頂尊勝陀羅尼経変は、西壁龕頂の金剛経変とともに、それぞれの経変画の種類では莫高窟現存最古の作例であり、この窟の造営者が当時最新の信仰を取り入れて壁画の題材とした、ということはいえるであろう。115頁)参照。

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